昭和天皇の式部官曰く「うちには金がないという皇族がいると皇室は国民から見捨てられる」

昭和天皇の式部官を務められた武田龍夫氏の本を買いました。

1986年1月に出版された本ですので「陛下」というのは昭和天皇を指します。

まだ全部読んでないのですが、「およ!?」と気になった箇所があったので紹介します。

たとえばの話だが、皇族費が少なくて皇族としての対面が保てないなどと苦情をいう宮様があるとするならば、各方面からヒンシュクを買うことであろう。――それはそうだ。
年間何千万という無税の生活費が支給され、首都の一等地に豪華邸宅を使用人づきで無償で提供されているのである。額に汗して働く一般労働者や、乏しい家計のなかから税金を払い妻子を養い、ローンの支払いに四苦八苦しているサラリーマンや庶民の立場からすれば、怒り心頭に発することだろう。君主制に対する革命の民衆心理は、こんなところから始まるのである。現にそういう投書や記事を、われわれは目にしてきた。
国民生活が困難なときに、白パンが食膳に出ると、「国民はこんなパンではないはずだ」と、どんぐり粉混入の黒パンしか口にされなかった陛下――また質素と節約を生活信条にされて、「まだ着られる」と言われていつも同じ背広を着ておられる陛下――また、わずか三千円の本の新聞広告を指さされて侍従に、「これを買ってよいか」と遠慮深くお聞きになられる陛下のことと思い合わせてみられたい。
今の宮殿建設のときだってそうだ。陛下は国民の復興ができないうちに宮殿構築することをお許しにならず、やっとお許しになられたのちも、「あまり金をかけるな。ぜいたくなものにするな。一坪でも減らすように。人身事故は絶対起さないように!」と言われたお方なのである。
皇族たる者にとって、前述した陛下や皇太子殿下のように、国民に対する広くこまやかなお心づかいと配慮をもたれることが、皇族としての意識と義務感をもつべきである。厳しく言えば、清貧に甘んじてもよいとのこ心構えをもつのが国民の皇族としての条件なのである。もしそうでないとき、皇室は国民から見捨てられるのである。
皇室に対して純粋思想を持つ右翼の人びとは、このことをよく承知している。というのも、彼らは君主制の崩壊は必ず暗愚な君主と、国民に対する王族の無自覚や堕落退廃から起るという歴史をよく知っているからである。
国民に対する思いやりと自己犠牲と自己抑制をもたれた、質素で清潔な生活をなされている皇族――そんな日本国民の道徳的模範が皇族なのであり、それが国民から親愛と尊敬の念を集めうる所以であると、とりわけてモラリストである彼らはそう固く信じているのである。


皇太子殿下というのは明仁皇太子のことです。
「いや、明仁皇太子夫妻は贅沢三昧だったっすよ」と当時の皇室を調査してる私としては言いたいが、
今の皇室ってまさにこの状態ですよね。

武田氏良く言ってくれた!!とヘーセーも30年となった今思うわ。

懇意のマスコミに
「うちには男が二人もいるのに東宮家よりも金がない!!金寄越せー!!」
と書かせている宮家が昭和の次の時代に表れるなんて武田氏は想像もしなかっただろう。


キーコさまに読ませたいわー。

あとこの後にこんな文章も書いてある。

皇族の言動で宮内庁が悩まされた例は少なくない。そんなときの宮内庁トップの苦悩は、察するにあまりある。現にある皇族の言動が社会的問題となって新聞に報道されたとき、心痛のあまり当時われらが敬愛する長官の頭髪がみるみる後退して前半分が禿げあがってしまったものである。そして一年近いすったもんだのあげく、ようやく問題が落ち着いたことで、やっとほっとしたのか、長官の禿げは再び以前の黒髪に戻ったのである。心因性円形脱毛症にかかったのだ!これは本当の話だ。

これ元祖お髭の宮様のトモさんですね。
皇族辞めたいと言い出した時のことです。

またこんなことも書いてある。

皇族方は、戦前と現在の皇室に対する国民感情の大きな落差を軽視してはいけない。
天皇家存続の絶対条件は、皇族宮家の人びとが真に国民から敬愛と尊崇の的として仰がれるような方がたであるか否かにかかっている。
そのことを皇族方は、厳しく認識しておかれる必要がある。


昭和も末期の頃に書かれた本の内容がまさかヘーセー末期の皇室の現状となるとは恐れ入谷の鬼子母神

本当にさ、徳仁天皇陛下はバカな両親と愚弟一家の悪行で思いっきり落ちてしまった皇室の権威を取り戻さなければならないという難題を背負って即位されるのです。
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斯くも残酷な側室制度 『朝香宮家に生まれて』

図書館から『朝香宮家に生まれて 侯爵夫人・鍋島紀久子が見て激動の時代』という本を借りました。

著者は北風倚子氏で北風氏の母鍋島紀久子さんについて書かれた本です。

北風氏は肥前佐賀35万7千石の鍋島家の長女として生まれました。

父鍋島直泰氏は式部官兼狩猟官を務められました。

鍋島紀久子さんは朝香宮家出身で明治天皇の孫に当たります。

朝香宮家は竹田、東久邇と同じく明治天皇の皇女の嫁ぎ先を確保する為に創設された宮家です。

皇女は皇族か天皇が特別に許した華族としか結婚出来なかった。
明治天皇は娘たちは結婚後も臣籍降嫁せず皇族であって欲しいと考えた。
だから宮家の当主となる男性皇族が必要だった。

明治天皇の四人の皇女と年齢が釣り合う男性皇族は以下のメンバー
・北白川宮恒久王(明治15年生まれ)
・北白川宮成久王(明治20年生まれ)
・有栖川宮栽仁王(明治20年生まれで明治41年に20歳で薨去)
・久邇宮鳩彦王(明治20年生まれ)
・久邇宮稔彦王(明治20年生まれ)

このうちの北白川宮成久王(明治20年生まれ)しか宮家の当主になれる皇女と年齢の連れあう男性皇族がいなかった。

宮家の当主になれない次男坊三男坊だと臣籍降下しなくてはならなくなる。

北白川恒久王は明治15年生まれで成久王よりも年上ですが、側室の子なので正妃の子である成久王が北白川宮家の跡取りとなりました。

「ほな、もうしゃーないから無いなら宮家を作ればええやん」

となって創設されたのがこちらの三つの宮家

竹田宮(初代恒久王で常宮昌子内親王と結婚)
朝香宮(初代鳩彦王で富美宮允子内親王と結婚)
東久邇宮(初代稔彦王で泰宮聡子内親王と結婚)


某皇族芸人を見るたびに
「明治天皇の皇女の為に作られた宮家出身の癖に女性皇族の人権を認めないとは馬鹿じゃねーのこいつ」
とヘカテーは思ってしまいます。
(口が悪くてすまん)

おっと、話がそれてしまった。

それでこの本を見てて気になった事を挙げてみるとこんな感じ。

その1 四人の内親王の子どもたちは仲良し
竹田宮昌子妃、北白川宮房子妃、朝香宮充子妃、そして麻布の宮邸に住む東久邇聰子妃の四姉妹の子供たちは、しょっちゅう往き来して遊んでいた。
母は活発な女の子だったから、従兄弟にあたる東久邇宮家の盛厚王や北白川宮家の永久王方とも一緒に遊んだという。北白川宮家には永久王、美年子女王、佐和子女王、多恵子女王の御四方の御兄妹で、美年子女王と母は同級。


「他の宮家とは繋がりがない」と言ってる皇族がいるが、大正時代の外廷皇族は交流があったのです。
内廷皇族と伏見宮家から分裂した外廷皇族はそれほどの付き合いはありません。
同じ皇族と言っても身分があまりに違いすぎますから。
だから照宮さまは盛厚氏と結婚後も愛情が生まれるまで時間が掛かった。

その2 フランス流の朝香宮家
朝香宮ご夫妻はフランスに遊学に行かれています。
帰国した朝香宮ご夫妻は生活を万事フランス流に変えます。
>日常会話にはフランス語が使われるようになって、子供たちは食事の時も、「ブール、シルヴブレ(パンをお願いします)」などと言わねばならない。祖父は、母に早くフランス語をマスターさせたいと考えたのだろう。食事中にも「フランス語の動詞の変化を言え」と命じて、答えられないとさらに質問が飛んでくる、というわけで、母は時に涙をこぼしていたと、叔母から聞いた。
>祖父も祖母も、日本にいる時からフランス語を学んでいた。皇室の公用外国語がフランス語だったためで、フランスでも磨きをかけ、日常会話のフランス語は不自由なく使えた。毎日の献立もフランス語でコックが書き、祖母の手元に上げられた。何かの集まりに、たまに着物を着ることはあったが、日常は洋服で通していた。
>フランスから婦人服のカタログを取り寄せて、これをもとにデパートでオーダーするのだから、そこにフランス人女性がいて、フランス語で注文していた。


明治生まれの皇族がフランス語ぺらぺらだった。
これを見れば「ミテコさまが虐められた背景にミテコさまが英語がペラペラで外国のVIPと英語で会話される姿に外国語が話せない皇族たちが嫉妬した」という皇室ジャーナリストどもの話が嘘だと分かりますね。

その3 側室だったら生母であっても「母とは呼ばない」
祖父の生母は小柄で目のクルッとした可愛らしいおばあさんで、よく祖父の家に来ていたから私も覚えている。でも小学生の頃だったから、このおばあさんはどういう人か、ということはわかっていなかった。母や叔母は「すが」と呼んでいた。
もう一人、同じくらいの年齢のおばあさんが、やはりよく祖父の家に来ていた。こちらは母や叔母に「小菊」と呼ばれていた。この人が祖母の生母で、小菊典侍と呼ばれていた園祥子である。祖父の家の老女を始め女中たちの彼女らに対する扱いは丁重であったが、母や叔母たちは「すが」「小菊」と呼び捨てにしていて、あくまでも「使用人」という感覚だったのだろう。
「すが」が祖父の、そして「小菊」が祖母の生母であることを知ったのは中学生の頃だったか。誰に教えられることもなく、いつの間にかそれは認識されたようだ。


側室制度って本当に残酷ですよね。
この本で一番印象に残ったことはこれ。
実の孫に「すが」「小菊」と呼び捨てにされるって辛い。
大正天皇も自分の母は昭憲皇太后と信じていて、生母が柳原愛子だと知った際にはショックを受けました。
皇女達も同様で母と呼んでいいのは嫡母である昭憲皇太后であって、生母ではないのです。
側室制度が無ければ男系男子継承なんてどう考えても無理なんですよ。


その4 皇女だから分家の分家の宮家当主の夫よりも偉い
内親王方は常に宮号で呼ばれた。私の祖母の場合は「富美宮様」である。充子、と呼ばれたことはおそらく一度もなかったであろう、と叔母もいっている。だから祖父が姉妹の妃殿下を呼ぶ時は、「周宮さん」とか「泰宮さん」であった。

北風氏は「宮号」と書かれていますが、正しくは「御称号」です。
宮号は「朝香宮」「東久邇宮」等の外廷皇族に与えられるものです。
「愛子さま」と高貴高齢者コンビが呼ぶからマスコミもそれに合わせて「愛子さま」と書いてますが、
正しくはちゃんと御称号で「敬宮さま」と呼ぶべきです。
明治天皇の皇女さまは結婚後も名前で呼ばれなかった。
御称号があるのは名前で呼ぶのは失礼だからです。
それだけ御称号がある内廷皇族の子どもと外廷皇族の子どもは身分が違う。

北風倚子氏の叔母に当たる大給湛子氏は『朝香宮のアール・デコ』という本でこのように語っています。
「他家の宮様方が自動車にお乗りになるときは、殿下が先にお乗りになって、妃殿下はおあとに乗るのが普通でしたがうちは反対でした」
(変人の東久邇稔彦王は別で「皇女でも俺が宮家の当主なんだから俺が偉い」という考えでした)

北白川宮家竹田宮家も同様でした。
偉大なる大帝明治天皇の皇女の方が夫であろうが分家の分家の皇族よりも偉い。
そりゃそうです。だって皇女さまの為に作られた宮家です。
「誰のお陰で宮家の当主になれたと思ってるんだ」と言えます。

雅子さまのご先祖田村寛一郎について

金本勝三郎氏の記事を拝見していて田村寛一郎氏について紹介したいと思います。

この人も中々の人物です。

田村寛一郎氏は弘化2年(1845年)に新潟県南魚沼郡中村(後の塩沢町)に生まれました。

寛一郎氏の父磐氏は呉服商兼雑貨屋兼質屋を営んでいて相当繁盛していました。

寛一郎氏は父の商いを助けながらも、読書に興味を持ち、まだ高価だった書籍を新刊が出る度に独力で買っていると費用が多額になる為、数名の同志と共に書籍を共同で購入しました。

塩沢町には『北越雪譜』を書いた鈴木牧之が生まれた町ですから勉強熱心な人が多い所でした。

田村寛一郎は書籍を通じて国学や漢学を勉強しました。

明治18年(1885年)2月、新潟県議会補欠選挙に当選し、以来六期という長期間に渡り、県議会議員を務め新潟県の為に奔走しました。

明治の新潟は交通の便が非常に悪く、県議会議員の仕事に支障が出る為新潟市に邸宅を持ちました。

人柄は清廉潔白正々堂々と議論を行い、尊王愛国の精神を貫いた人物で、周りからも人望がある政治家と言われました。

明治39年3月に出生地中村が町村合併を行うことになり、地元に帰り塩沢町長を三期務めました。

政治家を引退した後は国学や漢学の研究、詩歌を楽しむ生活を送り

大正14年(1925年)に81歳で亡くなりました。

(大正時代の81歳ですからかなりの長生きです)

明治政府はドイツの政治体制を見本として大日本帝国憲法を制定するために研究調査を行っていました。

田村寛一郎も憲法に関心を示し、私案を作成しました。

田村寛一郎は出来上がった私案を先学の小柳卯三郎氏に送り見解を求めています。

私案と共に送った手紙にはこのように書いてあります。

「今上陛下は明治二十三年を目ざし帝国憲法を作られるということで、浅学菲才の自分が軽々しく口にすべきではないのであるが、日本の国に生れ天皇陛下の臣民としてその一助にもなり、庶民の福祉を増進するのは私の本分とするものでこの案を作りました」

田村寛一郎の憲法私案はどんなものだったのかというと

≪民権≫
「国案ヲ妨害スルニ非ザレバ、各自ノ信ズルトコロノ信教ヲ認メル(第八十六条)」
と信教の自由を認めています。
戦後の新憲法も第二十条で信教の自由を認めています。

≪出版言論の自由≫
「国ヲ誹謗スルコトナケレバ、演説及ビ出版ノコトヲ認メル(第八十七条)」
新憲法も第二十一条で表現の自由を認めています。

≪集会・請願の権利≫
「武器ヲ持タズ静穏ニ集会シ政府ニ訴エルコトヲ得ル(第八十八条)」
新憲法も第十六条で請願の自由の項目があります。

≪職業選択の自由≫
「国安ヲ妨害シ、風俗ヲ乱サザレバ、何等ノ営業ヲ得ル(第九十条)」
新憲法でも第二十二条で職業選択の自由を認めています。

≪国際結婚OK≫
「日本国民ハ外国人ト結婚スルコトヲ得ル(第九十一条)」
新憲法ですら「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」と書いてあるだけで外国人との結婚については書いてありません。
江戸時代に生まれた新潟の人が国際結婚を日本人がする時代が来ると考えていたんですね。

≪死刑廃絶≫
「日本国民ハ如何ナル罪ヲ犯スモ死刑ニ処セラレル事ハナイ(第百二条)」
彼のヒューマニティーから出た考えですね。
ヘカテーは個人的には死刑はアリと考えてますが

≪財産権≫
「日本国民ハ財産ノ権利ヲ決シテ侵サレル事ハナイ(第九十五条)」
新憲法でも「財産権はこれを侵してはならない」となっています。

≪天皇について≫
「第一条 皇権ハ男統世襲ニシテ分カツベカラズ即チ之ヲ長皇子ニ伝ウ、若シ皇子ナキトキハ皇女ノ子孫ヲ除キ至近皇族ノ男子ニ伝イ日本国ニ君臨スルコト日月ノ如ク天地ト共ニ無窮ノモノトスル。
第四条 天皇ハ神聖ニシテ犯スベカラザルモノトス故ニ責任ナシ、政務ノ責任ハ内閣大臣コレニ当ル。
第七条 天皇ハ法律ヲ布告シ陸海空軍ヲ統率シ外国ニ対シ宣戦講和ヲナシ条約ヲ結ヒ官職ヲ授ケ之ヲ陟シ勲功ヲ賞シ貸幣ヲ鋳造シ上院下院ヲ開閉シ中止シ下院ヲ解散スルノ特権ヲ有ス」

これだけは残念ながら明治憲法とほぼ一緒
雪深い越後にはまだ男女同権の考えはなかった。


寛一郎の子又四郎は旧制新潟中学の先生をしていた。
又四郎の子が静さんで雅子さまの父方の祖母に当たります。
静さんも塩沢町で諸学校の教員をされていました。
同じく教員だった小和田毅夫さんと結婚されました。

雅子さまの勉強熱心さにはご先祖さまから伝わった教育一家の血筋を受け継いだものでもあったのです。

小和田家は既に1993年当時で3代以上遡れてました

ここまでヘカテーがちゃんとした文献で証拠を見せても下郎下女どもは

「フン、何よ。それは母方の家系でしょ。父方の小和田家はそれでも三代までしか遡れないじゃない」

と悪あがきをするだろう。

既に列外派では小和田家の家系図はちゃんと遡れていることを指摘してきたが、

ここで更に新しいことが分かった。

何と1993年5月に発行された『歴史と旅 臨時増刊』に小和田家の家系図が紹介されているのだ。

記事の名前は「<読者レポート>明治憲法私案を作成した小和田雅子さまの祖先」

日本家系図学会常任理事の金井勝三郎氏が書いたものです。

はい、この通り小和田家の家系図が紹介されてます。

家系図

小和田道助→新六→匡利→金吉→毅夫→恒→雅子さま

となってますね。

さ、下郎下女は長年デマを流してきたことを土下座して詫びてもらおうか?

えー、列外派読者の方々の中には

「ヘカテーさん、奴らに何言っても無駄ですよ」

と思う方もいらっしゃるかもしれません。

しかし私はこのように思うのです。

下郎下女のブログやサイトを信じていた人がたまたま列外派を見て

「え、雅子さまの家系ってこんなに凄かったの!?そして三代以上遡れるの!?」

ということを知って奴らの方が間違っていることに気付いてくれることがあるかもしれない。

それはたった一人かもしれない。

でもたった一人でも皇太子ご一家の真実を知ってくれたらと私は切に思うのです。

1993年に小和田家と皇室が縁続きと判明していた件

このブログの読者さまから

「ヘカテーさん、BBのアホたれがまーた小和田家の家系が遡れないと言ってますよ」

と教えていただきました。

BBのBはバカ(BAKA)のB
と思ってるヘカテー的には

「こちとらが何十回も『小和田家はエリートの家系で皇室ともご縁がある立派な家系だ』と証拠を出して指摘してるのにバカな奴だ」

と呆れ果てるぜ。

で、国立国会図書館から取り寄せた情報でさらに小和田家の家系図が凄いことが判明しました。

『週刊読売 1993年2月7日号』に掲載された記事
「スクープ!小和田雅子さんと天皇家は縁続きだった!!総力調査 繋がっていた両家の家系図」

という記事にはちゃんと家系図がばっちり掲載されている。

家系図その2
(長いので横向きにしてます)

まあ天皇家とはかなり遠いのですが、縁続きなんですね。

江頭安太郎から始まって島津家に繋がる。

久邇宮妃俔子妃は島津家のご出身。

俔子妃の娘である良子さまを通して皇太子殿下に繋がった。

こういう長ーい家系図です。

発見したのはアマチュアの系図研究家廣野耕さんです。

「これまでお妃候補に挙げられた女性たちの家系を調べてきましたが、大半は旧華族、皇族につながっていました。しかし、小和田さんは、そういうこととは無縁だと思い、調査を手付かずにしてきました。事実、新聞報道でもこの点に触れたところはありませんでしたから。ご婚約が決まり、本当にそうなのだろうかと素朴な疑問を抱いて、婚戚関係を行きつ戻りつして辿ってみました。そして、ついに一本の線で結ばれたのです」

で、週刊読売編集部も調べてみたんですね。
資料文献は明治36年から面々と編纂してる『人事興信録』という本。
そして霞会館が発行してる『昭和新修華族家系大成』という本です。

家系図研究の大家として知られているノンフィクション作家大森映氏はこの家系図を見てこのように仰ってます。

「見事なもんですなあ。私が執筆するにあたって、『人事興信録』は一番頼りになった文献ですし、『財界家系図』はこれまた、私が
一番活用している本ですから、十分信頼に値するね。(中略)この系図のポイントは、真ん中の両マスダ家でしょう。私も初めて聞く名前ですから。いやあ、改めて驚きましたよ」


雅子さまが皇太子妃に決まった際にマスコミが話題にしたのは

「美智子さまから二代続けて平民出身の皇太子妃」
「ハーバード東大オックスフォードで学んだエリート外交官」

と言ったことばかりでした。

つまり雅子さまの家系の凄さを指摘するのはちょっとしかない。

ミテコさまの実家正田家が娘が皇太子妃になってから閨閥作りに励んだのとは違って、

雅子さまの小和田家は最初からすごい家系だった。

それを国民に知られて欲しくなった高貴な方々がマスコミに触れるなと指示を出した。

私はそう思ってますよ。
プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@excite.co.jp

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