雅子さまのご先祖さま日本の英語教育始祖野辺地尚義と高松宮妃喜久子さまの先生野辺地 利阿

我が師匠Oakleyさまからコメントを頂きました

あーあー都合の悪いことは聞こえない
岩手県民さまおっしゃるように、山屋大将のご子孫がそんなはずないです。
岩手にはご立派なご親族が今もいらっしゃり、雅子さまのことを気遣っておいでだと聞きます。

wikiにはきちんとした証拠とともに、山屋他人のご先祖は中世に亀ヶ森地方を領有していた亀ヶ森一族であり、野辺地 尚義という教育者やその娘は高松宮喜久子妃の語学教師を務めるほどの方はがいらっしゃることが書いてあります。

有名なピアニストもおいでで、雅子妃や敬宮さまに芸術的なセンスが見られるのも無理からぬこと、とご出自からもわかります。
アンチ東宮の頭の悪い連中以外にも悔しがる方がおいででしょうw

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E8%BE%BA%E5%9C%B0%E5%B0%9A%E7%BE%A9

野辺地尚義_中央
野辺地尚義 (中央)、山屋他人(右側) (明治42年元旦)


コメントありがとうございます!

やっぱりよくご存じですね。

まったく存じませんでした。

>利阿は戦中・戦後と東宮御所至近の新宿区・南元町に親族の染山政太郎一家と一緒に暮らした。高松宮様や岩崎家のお嬢様達が毎週一回英語を学ぶために南元町にいらしていた。その後利阿は成城に移り、高松宮妃殿下の語学教師を務め、紫色のお高祖頭巾をしていつも宮邸に行っていた。当時の保科女官長も月に一度、利阿の自宅まで来られ英語を受講していた

ちょっと感動ですよ、これ!

高松宮妃喜久子さまから雅子さまがかわいがられたのって雅子さまご自身のお人柄だけではなく、お家柄もあったということの証拠がまた増えました。

下郎下女どもはこういう事実を突き出してもまだゴチャゴチャ言うのだから馬鹿だよねー。
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村上市観光協会公式HPを見てみよう!

村上市観光協会公式HP

村上市観光協会の観光パンフレットを閲覧できるのですが、

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そこにこんな記事がありました。

むらかみ市パンフレット

さらにおしゃぎり会館なる施設があると書いてあったのでクリックすると

おしゃぎり会館HP

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WOW!「皇太子妃雅子さまゆかりの地というコーナーがある

さらにぽちっとクリックすると

http://www.iwafune.ne.jp/~osyagiri/owadake/owadake.html

皇太子妃雅子さまゆかりの地・村上

雅子妃殿下と村上とは、とりわけ深い関係があります。
 旧村上藩主内藤家の家臣家系図で、最初に小和田家の名前が登場するのは天明7年(1787)第十代藩主内藤信敦侯時代の分限帳に「下横目、小和田新六」とあります。下横目とは、下級藩士のお目付役で禄は二人扶持でした。
 小和田新六は、柔術(制剛流)の達人でした。郷土史によると新六が天明8年(1788)に丸山令二治らと出した制剛流の許状が紹介されています。許状を出すには武術だけではなく人格識見ともに備わっていなければならず、新六もまた深い学識を備えていたものと思われます。
 江戸末期、村上藩沖にも「黒船」が姿を現わします。嘉永元年(1848)4月、内藤藩は酒井藩とともに海岸防衛のために出兵します。その中に、小和田道助の名前が見えます。道助は、安政6年(1859)親鸞上人の大法要の時、本悟寺(村上市細工町)に絹に銀の刺繍をした立派な打敷を寄進、今も同寺に残っています。幕末、小和田家はいくつかの分家を出したといわれ、雅子様のご先祖もそのひとつになります。
 小和田新六から曾祖父金吉までの家系については不明の点が多く、これからの調査に待つところが大きいのが現状です。
 明治初年の氏族名寄帳と、幕末に生きた人の聞き書きをもとに大正元年に作られた村上城絵図には、四人の小和田姓が登場します。
 戊辰の役で、村上藩は激しく揺れ、明治初年まで村上に住んでいた小和田一族は武士の身分を失い各地に別れました。
 一族の墓は、本悟寺と同市寺町の西真寺に残ります。西真寺の話では、同心組に名を連ねた小和田兵五郎の墓を、小和田毅夫氏が何度か訪れているとのことでした。 また、旧村上藩士族の団体である村上城址保存育英会に保存されている明治17年の村上鮭産育養所の漁業権者名簿(736戸)に金吉氏、大正13年の名簿に毅夫氏の名が記載されています。
 雅子妃殿下の曾祖父金吉氏(1900年没)までは、現在の村上市飯野に住んでいました。祖父の毅夫氏は教員になって村上市を離れ、新発田市、上越市を転任しながら移り住みました。
 父 恒(ひさし)氏は、毅夫氏が新発田市で教壇に立っているときに生まれましたが、本籍は村上市になっていました。
 村上市を流れる三面川は、世界に先駆けた鮭の人工増殖法とされる「種川の制」を旧藩時代に確立し、貧しかった藩の財政再建に貢献しました。明治の廃藩置県以降は、この収益で私学校が設立されたほか、旧藩士の子弟の育英制度が設けられ、これによって学び世に出た人たちは「サケの子」と呼ばれました。金吉氏、毅夫氏もその一員でした。
 妃殿下の祖母静さんの先祖も、旧村上藩士であることが記録により明らかになりました。このように雅子妃殿下と村上とは深いつながりあるのです。

2階展示場にはご成婚に伴い村上市役所で行われた除籍事務の関連資料やご成婚を記念して製作された村上堆朱の大きな二斗杯などを展示しています。


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さらに家系図も書いてあった。

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はい、皆さまご注目

>旧村上藩士族の団体である村上城址保存育英会に保存されている明治17年の村上鮭産育養所の漁業権者名簿(736戸)に金吉氏、大正13年の名簿に毅夫氏の名が記載されています。
>明治の廃藩置県以降は、この収益で私学校が設立されたほか、旧藩士の子弟の育英制度が設けられ、これによって学び世に出た人たちは「サケの子」と呼ばれました。金吉氏、毅夫氏もその一員でした
>妃殿下の祖母静さんの先祖も、旧村上藩士であることが記録により明らかになりました。このように雅子妃殿下と村上とは深いつながりあるのです。


村上市の人たちがちゃんと調べた結果、

正真正銘 小和田家は村上藩士の家系なのです!!

「サンダイマエガー」と喚いている下郎下女どもは村上市民の人たちがまじめに調べた結果に屈服したまえ。

村上市民のみなさんは雅子さまが大好きです。

アンチ雅子>小和田は三代前までしかわからない

ご結婚当時は小和田金吉までしか公開されていなかったから↑みたいなこと言っているアンチ雅子

なんで公開されていなかったのかと言うと

部落解放同盟が「皇太子妃を選ぶために皇室専門の調査官が四代前まで遡って調査したのは差別を助長する!」と因縁つけてきたから。

証拠記事 http://megalodon.jp/2015-0218-1926-34/blog-imgs-11.fc2.com/k/o/r/koramu2/20110519101045e76.jpg

あと、雅子さまの母方のご先祖さまが海軍の軍人ばかりだったから「皇太子妃の実家が軍人の家系なのはまずい」と考えられたから。

ご結婚当時は「金吉氏から前のご先祖が分からない」と報じられました。

しかし、最近の研究で金吉氏よりも前の小和田家のご先祖さまが分かるようになりました。

川口素生氏の『小和田家の歴史』という著書に書いてある記述の通り家系図を作るとこうなります。

小和田家家系図

小和田金吉よりも前まで遡れるやないかーい!

以前記事で「皇太子ご夫妻のご成婚時の村上市のフィーバーぶり」をご紹介したら読者の方からこんなコメントを頂戴しました。

毘沙門天さまコメント

正直に言うと・・・・・村上市は閉鎖的な土地です。
いくら平成になっていたとはいえ、戦前どころか、それ以前のことを語り継いで色々なことを互いに知るご老人達が矍鑠としているのです。
ですから、もし小和田家がアンチの言うような出自であれば、これほど盛り上がりません。
「小和田家から東宮妃が出た! 名誉な事だが小和田という家を考えたら東宮妃が出て当然の事でもある!」・・・・・というのが村上市の総意です。


アンチ東宮よ、これでOKかい?

君たちみたいに裏付けなしにごちゃごちゃ言うのではなく、参考文献を上げてるからね。
プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@excite.co.jp

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