雅子さまのご先祖田村寛一郎について

金本勝三郎氏の記事を拝見していて田村寛一郎氏について紹介したいと思います。

この人も中々の人物です。

田村寛一郎氏は弘化2年(1845年)に新潟県南魚沼郡中村(後の塩沢町)に生まれました。

寛一郎氏の父磐氏は呉服商兼雑貨屋兼質屋を営んでいて相当繁盛していました。

寛一郎氏は父の商いを助けながらも、読書に興味を持ち、まだ高価だった書籍を新刊が出る度に独力で買っていると費用が多額になる為、数名の同志と共に書籍を共同で購入しました。

塩沢町には『北越雪譜』を書いた鈴木牧之が生まれた町ですから勉強熱心な人が多い所でした。

田村寛一郎は書籍を通じて国学や漢学を勉強しました。

明治18年(1885年)2月、新潟県議会補欠選挙に当選し、以来六期という長期間に渡り、県議会議員を務め新潟県の為に奔走しました。

明治の新潟は交通の便が非常に悪く、県議会議員の仕事に支障が出る為新潟市に邸宅を持ちました。

人柄は清廉潔白正々堂々と議論を行い、尊王愛国の精神を貫いた人物で、周りからも人望がある政治家と言われました。

明治39年3月に出生地中村が町村合併を行うことになり、地元に帰り塩沢町長を三期務めました。

政治家を引退した後は国学や漢学の研究、詩歌を楽しむ生活を送り

大正14年(1925年)に81歳で亡くなりました。

(大正時代の81歳ですからかなりの長生きです)

明治政府はドイツの政治体制を見本として大日本帝国憲法を制定するために研究調査を行っていました。

田村寛一郎も憲法に関心を示し、私案を作成しました。

田村寛一郎は出来上がった私案を先学の小柳卯三郎氏に送り見解を求めています。

私案と共に送った手紙にはこのように書いてあります。

「今上陛下は明治二十三年を目ざし帝国憲法を作られるということで、浅学菲才の自分が軽々しく口にすべきではないのであるが、日本の国に生れ天皇陛下の臣民としてその一助にもなり、庶民の福祉を増進するのは私の本分とするものでこの案を作りました」

田村寛一郎の憲法私案はどんなものだったのかというと

≪民権≫
「国案ヲ妨害スルニ非ザレバ、各自ノ信ズルトコロノ信教ヲ認メル(第八十六条)」
と信教の自由を認めています。
戦後の新憲法も第二十条で信教の自由を認めています。

≪出版言論の自由≫
「国ヲ誹謗スルコトナケレバ、演説及ビ出版ノコトヲ認メル(第八十七条)」
新憲法も第二十一条で表現の自由を認めています。

≪集会・請願の権利≫
「武器ヲ持タズ静穏ニ集会シ政府ニ訴エルコトヲ得ル(第八十八条)」
新憲法も第十六条で請願の自由の項目があります。

≪職業選択の自由≫
「国安ヲ妨害シ、風俗ヲ乱サザレバ、何等ノ営業ヲ得ル(第九十条)」
新憲法でも第二十二条で職業選択の自由を認めています。

≪国際結婚OK≫
「日本国民ハ外国人ト結婚スルコトヲ得ル(第九十一条)」
新憲法ですら「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」と書いてあるだけで外国人との結婚については書いてありません。
江戸時代に生まれた新潟の人が国際結婚を日本人がする時代が来ると考えていたんですね。

≪死刑廃絶≫
「日本国民ハ如何ナル罪ヲ犯スモ死刑ニ処セラレル事ハナイ(第百二条)」
彼のヒューマニティーから出た考えですね。
ヘカテーは個人的には死刑はアリと考えてますが

≪財産権≫
「日本国民ハ財産ノ権利ヲ決シテ侵サレル事ハナイ(第九十五条)」
新憲法でも「財産権はこれを侵してはならない」となっています。

≪天皇について≫
「第一条 皇権ハ男統世襲ニシテ分カツベカラズ即チ之ヲ長皇子ニ伝ウ、若シ皇子ナキトキハ皇女ノ子孫ヲ除キ至近皇族ノ男子ニ伝イ日本国ニ君臨スルコト日月ノ如ク天地ト共ニ無窮ノモノトスル。
第四条 天皇ハ神聖ニシテ犯スベカラザルモノトス故ニ責任ナシ、政務ノ責任ハ内閣大臣コレニ当ル。
第七条 天皇ハ法律ヲ布告シ陸海空軍ヲ統率シ外国ニ対シ宣戦講和ヲナシ条約ヲ結ヒ官職ヲ授ケ之ヲ陟シ勲功ヲ賞シ貸幣ヲ鋳造シ上院下院ヲ開閉シ中止シ下院ヲ解散スルノ特権ヲ有ス」

これだけは残念ながら明治憲法とほぼ一緒
雪深い越後にはまだ男女同権の考えはなかった。


寛一郎の子又四郎は旧制新潟中学の先生をしていた。
又四郎の子が静さんで雅子さまの父方の祖母に当たります。
静さんも塩沢町で諸学校の教員をされていました。
同じく教員だった小和田毅夫さんと結婚されました。

雅子さまの勉強熱心さにはご先祖さまから伝わった教育一家の血筋を受け継いだものでもあったのです。
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小和田家は既に1993年当時で3代以上遡れてました

ここまでヘカテーがちゃんとした文献で証拠を見せても下郎下女どもは

「フン、何よ。それは母方の家系でしょ。父方の小和田家はそれでも三代までしか遡れないじゃない」

と悪あがきをするだろう。

既に列外派では小和田家の家系図はちゃんと遡れていることを指摘してきたが、

ここで更に新しいことが分かった。

何と1993年5月に発行された『歴史と旅 臨時増刊』に小和田家の家系図が紹介されているのだ。

記事の名前は「<読者レポート>明治憲法私案を作成した小和田雅子さまの祖先」

日本家系図学会常任理事の金井勝三郎氏が書いたものです。

はい、この通り小和田家の家系図が紹介されてます。

家系図

小和田道助→新六→匡利→金吉→毅夫→恒→雅子さま

となってますね。

さ、下郎下女は長年デマを流してきたことを土下座して詫びてもらおうか?

えー、列外派読者の方々の中には

「ヘカテーさん、奴らに何言っても無駄ですよ」

と思う方もいらっしゃるかもしれません。

しかし私はこのように思うのです。

下郎下女のブログやサイトを信じていた人がたまたま列外派を見て

「え、雅子さまの家系ってこんなに凄かったの!?そして三代以上遡れるの!?」

ということを知って奴らの方が間違っていることに気付いてくれることがあるかもしれない。

それはたった一人かもしれない。

でもたった一人でも皇太子ご一家の真実を知ってくれたらと私は切に思うのです。

1993年に小和田家と皇室が縁続きと判明していた件

このブログの読者さまから

「ヘカテーさん、BBのアホたれがまーた小和田家の家系が遡れないと言ってますよ」

と教えていただきました。

BBのBはバカ(BAKA)のB
と思ってるヘカテー的には

「こちとらが何十回も『小和田家はエリートの家系で皇室ともご縁がある立派な家系だ』と証拠を出して指摘してるのにバカな奴だ」

と呆れ果てるぜ。

で、国立国会図書館から取り寄せた情報でさらに小和田家の家系図が凄いことが判明しました。

『週刊読売 1993年2月7日号』に掲載された記事
「スクープ!小和田雅子さんと天皇家は縁続きだった!!総力調査 繋がっていた両家の家系図」

という記事にはちゃんと家系図がばっちり掲載されている。

家系図その2
(長いので横向きにしてます)

まあ天皇家とはかなり遠いのですが、縁続きなんですね。

江頭安太郎から始まって島津家に繋がる。

久邇宮妃俔子妃は島津家のご出身。

俔子妃の娘である良子さまを通して皇太子殿下に繋がった。

こういう長ーい家系図です。

発見したのはアマチュアの系図研究家廣野耕さんです。

「これまでお妃候補に挙げられた女性たちの家系を調べてきましたが、大半は旧華族、皇族につながっていました。しかし、小和田さんは、そういうこととは無縁だと思い、調査を手付かずにしてきました。事実、新聞報道でもこの点に触れたところはありませんでしたから。ご婚約が決まり、本当にそうなのだろうかと素朴な疑問を抱いて、婚戚関係を行きつ戻りつして辿ってみました。そして、ついに一本の線で結ばれたのです」

で、週刊読売編集部も調べてみたんですね。
資料文献は明治36年から面々と編纂してる『人事興信録』という本。
そして霞会館が発行してる『昭和新修華族家系大成』という本です。

家系図研究の大家として知られているノンフィクション作家大森映氏はこの家系図を見てこのように仰ってます。

「見事なもんですなあ。私が執筆するにあたって、『人事興信録』は一番頼りになった文献ですし、『財界家系図』はこれまた、私が
一番活用している本ですから、十分信頼に値するね。(中略)この系図のポイントは、真ん中の両マスダ家でしょう。私も初めて聞く名前ですから。いやあ、改めて驚きましたよ」


雅子さまが皇太子妃に決まった際にマスコミが話題にしたのは

「美智子さまから二代続けて平民出身の皇太子妃」
「ハーバード東大オックスフォードで学んだエリート外交官」

と言ったことばかりでした。

つまり雅子さまの家系の凄さを指摘するのはちょっとしかない。

ミテコさまの実家正田家が娘が皇太子妃になってから閨閥作りに励んだのとは違って、

雅子さまの小和田家は最初からすごい家系だった。

それを国民に知られて欲しくなった高貴な方々がマスコミに触れるなと指示を出した。

私はそう思ってますよ。

丹羽宮司が昭和天皇とも会っていたことが判明した件

ツィッターでお世話になっているmitsuki さまからコメントを戴きました。


雅子様の高祖父である丹羽 与三郎(與三郎) 房忠 は、迪宮、後の 昭和天皇 ともお会いしている筈です。鶴岡八幡宮で。
「鶴岡八幡宮年表」に記述があるようです。
迪宮 鶴岡八幡宮 でググれば触りだけでも見れます。
一番上に出てきました。
当たり前ですが沢山の皇族方とお会いしています。
1908年
明治41年
戌申
8月17日
迪宮・淳宮・光宮三殿下、参拝せらる。
とありました。澄宮、三笠宮様はまだ生まれてないです。
ちなみに以前ツイートした丹羽与三郎の資料は、アジア歴史資料センターで「丹羽与三郎」で検索すると出てきます。
「房忠」ですと出てこなかったと思います。
私がツイートしているものは、全て公表されている、誰でも見られる資料です。


教えてくださって本当にありがとうございます。

私もググって見たら本当にありました↓


https://books.google.co.jp/books?id=2NmdrPZwD-MC&pg=PA1909&lpg=PA1909&dq=%E8%BF%AA%E5%AE%AE%E3%83%BB%E6%B7%B3%E5%AE%AE%E3%83%BB%E5%85%89%E5%AE%AE%E4%B8%89%E6%AE%BF%E4%B8%8B%E3%80%81%E5%8F%82%E6%8B%9D%E3%81%9B%E3%82%89%E3%82%8B&source=bl&ots=XkGlfZSLzm&sig=z_QytBWLve__vwgDFzYEk7_bz3E&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiFiq7FtPvaAhUH5rwKHT8gCosQ6AEIJjAA#v=onepage&q=%E8%BF%AA%E5%AE%AE%E3%83%BB%E6%B7%B3%E5%AE%AE%E3%83%BB%E5%85%89%E5%AE%AE%E4%B8%89%E6%AE%BF%E4%B8%8B%E3%80%81%E5%8F%82%E6%8B%9D%E3%81%9B%E3%82%89%E3%82%8B&f=false

明治四十一年八月十七日に迪宮(昭和天皇)、淳宮(秩父宮さま)、光宮(高松宮)の三兄弟が参拝してますね。

昭和天皇がまだ7歳ですね。

丹羽宮司は明治35年7月から鶴岡八幡宮の宮司に就任されてますね。

で、その間に他の皇族方にも会っている。

明治36年
3月25日富美宮、泰宮両内親王が参拝
4月3日久邇宮若宮が参拝
(久邇宮邦彦王が明治24年に継承してますので、その息子である久邇宮朝融王ですね。明治34年生まれですからまだ1,2歳です)

明治36年
4月26日、久邇宮(良子さまのお父上)が参拝
11月21日、伏見宮貞愛親王妃利子(有栖川宮家ご出身)

明治37年
2月11日 久邇宮、若宮が参拝
3月21日 富美宮、泰宮参拝

明治38年
5月11日、富美宮、泰宮参拝
7月5日 梨本宮安子女王参拝
7月17日 華頂宮若宮参拝
7月25日 閑院宮若宮四殿下参拝
8月13日 閑院宮若宮参拝
8月24日 久邇宮若宮四殿下参拝
10月9日 光宮参拝

明治39年
8月5日 常宮、周宮参拝
8月7日 華頂宮女王参拝
9月7日 迪宮、淳宮参拝

明治40年
8月2日 久邇宮妃参拝

明治41年
1月14日 富美宮、泰宮参拝
2月13日 常宮、周宮、富美宮、泰宮参拝
8月7日 久邇宮妃、若宮二殿下参拝
8月17日 迪宮、淳宮、光宮参拝

明治43年
10月16日 閑院宮若宮参拝

明治44年
2月26日 泰宮参拝

大正2年
8月5日 淳宮、高松宮参拝

そんでもって丹羽宮司は大正5年5月に正五位勲六等が贈られた際の書類がアジア資料センターにちゃんと保管されてるのだ。
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国幣中社鶴岡八幡宮宮司丹羽与三郎特旨叙位ノ件より
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi

で、江頭安太郎と山屋他人の叙位叙勲の書類もちゃーんと残っているのだ

江頭安太郎
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7b03435d32f01bf5a62604efc3a7ee5f.png
海軍中将江頭安太郎特旨叙位ノ件より
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi

そしてこれが江頭安太郎の直筆
03192e6f5c833641e717974fea834854.png
副臨3068 10月21日海軍副官通牒列席者へ通知の件 陸軍副官より
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi

山屋他人がこちら
無題
海軍大将山屋他人外八十六名特旨叙位ノ件より
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi

古賀喜三郎もあった
102882df1832e00fb485c0bf739c5c69.png
陸軍一等監督間宮四郎外十五名特旨進階ノ件
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi

こうやって記録が残っているのだ

皆様エリートでございます

それでも雅子さまのご先祖様方は自分の子孫が皇后陛下になられるとは思ってもみなかっただろうなー

あと海軍が出してる海軍の軍人向けの広報誌に

「どこそこに紋章が落ちてたから心当たりがある人は取りに来なさい」

と書いてあった。

紋章を無くしちゃったドジっ子がいたんだなーと

江頭安太郎について

えー、秘密のコメントでこんなものがあった

雅子様の出自について、父親恆氏について代が辿れないや、半島から渡ってきたなど。優美子さんについては芸人江頭さんが親戚でインタビューで彼は自分は被差別部落の出身者だと語ったとか(江頭さん自身の出自が本当に被差別かということについても分かりませんインタビュアーが掲載できないとにおわせるに終始しているからです)。
あと10年以上前の週刊誌にて小和田家の出自についてあるジャーナリストが言及しているなど。
私がこれらを知ったのはBBblogでした。知った時は無知とはいえ、やはり衝撃というか驚きました。
お手すきの時でいいので、やはり教養のあるヘカテーさんに丁寧に反論記事を更新していただきたいです。


小和田家については村上市の郷土史家が調べて今では小和田金吉よりも遡った家系図が完成しています

村上市のおしゃぎり会館のHPに掲載されています。

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過去記事 村上市観光協会公式HPを見てみよう!

江藤淳の『一族再会』を手に入れました。

江藤淳氏の名作なのに絶版だから思ったよりも高かった。

名作を絶版にしてくだらない本を出しまくる現在の日本の出版業界を何とかしてほしいぜ。

戦後日本を代表する保守派の論客だった江藤淳氏は江頭安太郎の孫で雅子さまのお母上優美子さんの従兄弟に当たります。

本名は江頭淳夫です。

『一族再会』は江藤淳氏が自分のルーツをたどるという本です。

江藤淳氏が実際に佐賀県立図書館で調査した際に見つかったある本に江頭安太郎について書いてありました。

昭和5年11月に出版された肥前史談会編『先覚者小伝』という本です。

江頭安太郎
海軍中将従四位勲二等功三級。慶応三年を以て北川副村木原に生る。佐賀中学校を出て鍋島侯の貢進生として上京し攻玉舎に入り修行多年、明治十五年海軍兵学校に学び、十九年優等主席を以て卒業し次で少尉より漸次大尉に昇進し、廿四年海軍大学校に入り是亦成績一等にて卒業し双眼鏡を拝受す。日清戦役には軍務課員に抜擢されて軍務に従事し、三十六年大佐に進み教育本部第一部長に補せらる。又日露戦役には大本営参謀となり全軍の枢機に参画して功績あり、四十一年海軍少将に任じ、旅順佐世保両鎮守府参謀長、人事局長、軍務局長等に歴任し、大正二年一月中将に陞任、病気を以て特命仰付けらる。其の人と為るや、思慮周密にして事を処するに容易に鋒鋩を現はさず、而かも頭脳明晰にして判断力に富み、其の軍務局長の職に在るや
海軍諸規則の改正を断行して名声を博し、当時海軍唯一の生字引を以て称せらる。未来の海軍大臣として期待されたるが、大正二年一月二十二日遂に卒去す。享年四十七



江頭安太郎の父は佐賀藩士江頭嘉蔵です。

嘉蔵の妻キノは大正二年一月二十三日付の『東京朝日新聞』の江頭安太郎逝去を報じる記事で「賢夫人の誉高かりし母堂」と書かれ、青山墓地にある江頭家の墓には

「佐賀県士族江頭嘉蔵室喜能子之墓」と墓石に記されています。

嘉蔵は下級武士で江藤淳氏は「手明鑓(てあきやり)」と呼ばれるクラスの藩士だったと推測しています。

手明鑓は平時は無役だが、戦時には兵士となる者を指します。

江頭という苗字を「穢多の頭だから江頭」と下郎下女はネット上でばらまいているが、

真実は川口素生氏の著書『小和田家の歴史』という本にこのように書かれている

肥前佐嘉(佐賀)郡に江頭村があった。この地は現在の佐賀市鍋島町大字八戸溝字江頭にあたる。江頭の地名の由来は江(嘉瀬川)の流路が少しずつ東から西へ移動していった過程を示すことに起因すると言われる(『佐賀県の地名』平凡社)。江頭の最西部に江頭城跡があり、応仁元年(一四六七)に江頭城主・江頭摂津守が千葉教胤に攻められて討死を遂げたといわれる。

江頭安太郎は授業料の減免や教科書の貸与をしている佐賀中学校に進みます。

佐賀中学校では父嘉蔵氏は小使として働いています。

『一族再会』には「木原村出身の人で親切な小使さんだった」と佐賀中学校OBの代議士が江藤淳氏に話しています。

江頭安太郎は非常に優秀で通常は四年かかる中学校を飛び級して二年で主席卒業。

同時に旧藩主家鍋島侯爵の貢進生に選ばれています。

学資の心配が無くなった東京に行く余裕が出来たのです。

それでも貧しい家庭の江頭安太郎が学ぶには官費の学校に行くしかありません。

貧乏士族の子弟の唯一の立身の道が軍人になることでした。

上京した江頭安太郎が入学したのはまず近藤真琴の攻玉社。

攻玉社で二年学んだ江頭安太郎は明治15年に海軍兵学校に主席入学しています。

主席で海軍兵学校を卒業した江頭安太郎。

卒業式には明治天皇が臨席し、式後には江頭安太郎が卒業生を代表して遠洋航海の内容について御前講演をしました。

本当にどこの誰とも分からない人だったら御前講演なんて出来ねーぞ

雅子さまのご先祖さまの山屋他人は大正天皇と昭和天皇の御用掛をされて拝謁や御前講義をされたが、江頭安太郎の方が先なんですね。

江頭2:50と親戚というのはソースがないのでまったくのでたらめです

もし親戚だったらもっと大騒ぎになってますよ

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プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@excite.co.jp

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