迪宮、淳宮、光宮の皇孫殿下のかわいい話

『思い出の昭和天皇』という本があります。

これは昭和天皇の身近にいた人たちにインタビューをしたものです。

第一章 東久邇信彦氏・壬生基博氏
(昭和天皇の外孫で東久邇成子さんのご子息)
第二章 池田厚子さん
(昭和天皇の第四子で岡山の池田家に嫁がれた)
第三章 秩父宮妃勢津子さま・高松宮妃喜久子さま
(昭和天皇の弟宮のお妃)
第四章 寛仁親王
(三笠宮さまの第一子で皇族辞めたいと言って昭和天皇にものすごく怒られた方)

第三章の勢津子さまと喜久子さまのお二人のインタビューした章でめっちゃかわいい話を見つけましたのでご紹介します。

以下太字の大きな文章は上記本からの引用です。

秩父宮妃
お三方さまに、三田市する方々や地方からなど、おもちゃとか、スポーツ用具とかお人形や、土地の名産など「皇孫さまに」といって献上があったようです。お人形のときのことが書いてありましたけれど、お三方まで、三つの人形をそれぞれお選びになるわけね。陛下はやっぱりそのころから兄上さまだからいつも弟さまたちに「お先に」とおっしゃるんです。

高松宮妃
なかなかできないことですわね

秩父宮妃
そういうようにお躾けられになったんですね。お子さまだし自分の欲しいものは欲しい。まず高松宮さまが真っ先に「ありがとう」とおっしゃってお取りになる。今度は、秩父宮さまがほんとうにめずらしく「お兄さまがお先に」とおっしゃるんですね。
そしたら陛下がびっくりあそばしたと同時にやっぱりお欲しいものをすぐにお取りになった。秩父宮さまは結局、欲しいものがなく、残ったものをやむを得ずお取りになった。涙を流さんばかりで。

高松宮妃
おかわいいわねえ。

秩父宮妃
ほんとうにおわかいいの。お側の拝見した人が書いているのだから、ではない。



いやー、かわいいですね。

昭和天皇の御称号が迪宮
秩父宮さまの御称号が淳宮
高松宮さまの御称号が光宮

昭和天皇と秩父宮さまって1歳差だからどっちがお兄ちゃんかおちびちゃんの頃は分かりにくいです。
(ほとんど身長が一緒)
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(ウィキペディアの大正天皇の記事より)

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(貞明皇后が撮影した四人の親王さまの写真)

さらにこんなエピソードもあります。

秩父宮妃
お三方がご一緒に、当時の青山の皇子御殿でお育ちになって、そしてその後皇太子さまだけが、高輪の御所、つまり東宮御所にお移りになって、特別なご教育をお受けになることになったわけ。

高松宮妃
つまり東宮御学問所ね。

秩父宮妃
そう御学問所。それでお三人さまはお別れするときがきて・・・・・・。お別れのお悲しみはたいへんでした。秩父宮さまと高松宮さまが、そのとき冬だったもので、「明日は、雪になれ雪になれ、大雪になれ、大雨になれ」って祈ってらしたんですって。そしたら、ほんとに大雪で東宮さまが高輪へお移りするのがご延期になり、バンザイ、バンザイでみなさんお喜びだったと、それも書いてありますよ。ところがそう長くは降ってないでしょうから、その翌日は晴れて、いよいよお別れで、あとのお二方さまも別々のところの御用邸にいらっしゃることになりました。陛下は沼津、高松宮さまは小田原、うちの宮さまは葉山と、別々に違うところへおいでになったとあります。ほんとうにお気の毒でしたのね。


スッゲーかわいいんですけど!

ご兄弟は大きくなるとその立ち位置から戦争に関する考えは一致しない時もありました。

それでも仲はよかったのです。

兄宮は弟と思い、弟宮は兄宮の役に立とうとした。

昭和天皇は体の弱い弟を一方的に虐める兄ではなかったし

弟宮さまたちもたとえ兄弟であっても身分が違うということをわかっていた。

三笠宮さまは二人の兄上に「兄貴よりもうちのほうが偉い。なぜなら男の子がいるから。そっちの予算をこっちに回せ。金寄越せー!」なんて仰らなかった。

昭和天皇の息子が大正天皇みたいに子煩悩で気取ったところがない優しい人だったらこんなヘーセーにならなかったでしょうね。
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3月6日 今日は桃の国母さまが生まれた日

ハッピーバースデー!良子さま

62歳の良子さま






良子さまのお話

終戦後、昭和天皇は「国民を励ましたい」と日本中を駆け回った。

10日ぐらい風呂に入れなくてもよいと仰って汽車の中に泊まることもあった。

昭和天皇の横には良子さまはいらっしゃらなかった。

何とか空襲で燃えずに残った古着や毛糸を搔き集めて女官さんも内親王様方も総動員で大陸からの引揚者のために布団や上着を作られていた。

そして完成したものを侍従さんにこう仰って渡された。

「絶対に私たちが作ったものと言わないで渡してください」

一度「皇后さまがお作りになられたものです」と言って渡したら

「家宝にします」「神棚に飾ります」と言って着てもらえなかったことがあった。

だから良子さまは「絶対に皇后が作ったものと言わないように」と仰ったのです。
(参考文献 『劇画 皇后陛下』河原敏明監修 篠崎佳久子画 サンマーク出版 昭和63年9月発行)

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ちなみにこの過去記事をぜひ読んでほしいです。
これが本当の慈愛です。良子さまのアピールしない国民への愛

そしてもうひとつのエピソード

九重さまコメント
今日3月6日は、リアルお雛様の良子様のお誕生日なので、良子様のいいお話を一つ紹介します。

日本が戦争に負けそうになった昭和20年、昭和天皇についている侍従武官は、「このごろ奥からのおすべりが多い、きっと食料が増えたのだ」と言って、喜んだ。
ところが、それは食料が増えたのではなくて、お傍の者たちが食料不足で困っているのをみかねた皇后さまの思し召しで、ご自分たちの分を削って、おすべりになさったものだった。
その結果、ただでさえ乏しいご一家のお食事はさらに貧しいものになった。(児島襄「天皇」より)

リアルお雛様は、心も最高のお方でした。

良子さまのお心は、雅子様に引き継がれています。


ヘカテー及び列外派にお集まりの読者の方々は「良子さまは意地悪な姑で美智子さまを平民だからと虐めていた」という汚名を雪ぐ日が早く来てほしいと祈っています。

桃のお后さまをズタボロにしたのは誰か私たちは知っている。


宮内庁長官「カゼが流行ってるからお休みしただけだし、宮さまだけが多いわけじゃない。成長すれば体力もつくから心配いらない」

キンジョーヘーカと言えば

「愛子は風邪ひいてばっかり!会う機会がないから打ち解けない!」

と記者会見で敬宮さまと皇太子ご夫妻を批判した鬼ジジイです。

(天皇陛下お誕生日に際しての記者会見にて(平成18年))

幼稚園に入ってから風邪をひくようになった。

幼稚園なんてウィルスがうようよしてるんだから風邪ひきやすくなるのは当然じゃんと皆様も思ったでしょう。

ヘカテーは『週刊女性自身 昭和40年11月8日号』をヤフオクで落札しました。

こんな記事がありました。

「浩宮さまにたくましさを 宮内庁覆面記者記」

浩宮さまって幼稚園に入ってから休みがしばしばすぎるんじゃないの?と指摘してます。

それを記者会見で質問された当時の宮内庁長官宇佐美氏の答え

「カゼでのお休みが多いと聞いて調べたが、ほかの園児もずいぶんお休みんが多いらしい。今年はやっているんでしょう。ただ弱いのより丈夫なほうがいいにきまっているし、だんだん育っていかれるうちに、体力もついてくるでしょう」
(原文ママ)

また東宮大夫の鈴木氏も

「両殿下もこのことには丈夫に育てようと心がけておられるようです。御所のなかではお元気だし、みなさんが心配するほどお弱くはないのですが―」

と言ってます。

はい皆様ご注目

自分の息子も幼稚園の頃、風邪ひいて休んでたんじゃん!

というかあれなんだわ。

継宮明仁親王が休まず一週間ちゃんと学校へ行けるようになったのは初等科4年ぐらいからなのよ。

そのぐらいひ弱だったし、周りも「やっと生まれた東宮さまだから」と甘やかしまくった。

そんなチビの頃ひ弱で、親になってからは子どもが休むことが多いんじゃない?と言われても宮内庁長官から庇ってもらった人が

自分の直系の孫娘を記者会見で批判したんだからひどい話だぜ。

21世紀の時代だからワールドワイドにこの発言は広まった。

世界中の人から

「え、何このエンペラー。孫息子は絶賛してるのに、クラウンプリンスナルヒトとクラウンプリンセスマサコの子供のプリンセスアイコを批判してる。男女差別じゃない?」

と思われてるわよ!

ヘーセーだったらありえない写真

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良子さまがピアノを演奏されてるのですが、

後ろ向きで良子さまのお顔が見えないのです。

ヘーセーはこうだぜ↓


あとこれな
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良子さまは楽器を演奏されることが本当にお好きなんですよ。

藤島泰輔著『上流夫人』にある東久邇成子さまのエピソード

昭和の皇太子夫妻が大大大嫌いな明仁皇太子のご学友の藤島泰輔の著書『上流夫人』

『上流夫人』内でも

『地位の象徴』(大門一樹著)という本を読むと、聖心女子大の卒業生は、同窓会のパーティーに出かけるとき、その衣装が、総しぼりの五十万ぐらいの訪問着でないと肩身が狭いと書いてあった。ほんとうだとすれば愚かなことだし、上流イメージとは程遠い。
(66ページ)

と言ってます(笑)

聖心女子大と言えばミテコさまの母校

「東宮妃の母校の聖心女子のOGってバカだよねー。チョー成金って感じでチョー下品なんですけど~。常磐会の会員はそんなバカなことしません!」

とかなり言いたい放題です。

(地元の図書館とか調べるとあると思うので読んでみてね)

列外派でも藤島泰輔の昭和の皇太子夫妻を思いっきりバカにした発言を何回も取り上げてますね。

さて『上流夫人』では多く東久邇成子さまのことを取り上げてます。

そこに涙なしには読めないエピソードが書かれてました。

東久邇成子さま
照宮さま

列外派読者の皆さまはご存知の方ですね。

昭和天皇と良子さまの第一子で、

御結婚前は照宮成子内親王

皇族の東久邇家へお嫁入りされ、

戦後は臣籍降下で平民として苦労に苦労を重ねられ、

5人の幼い子どもを残して35歳の若さでガンで亡くなられたお方です。

昭和天皇同様激動の人生を送られた方です。

ご学友だった酒井美意子さんは

「学習院の錚々たる御家柄のプライドの高い女生徒たちが『このお方には敵わない』と敬愛したプリンセスの中のプリンセス」
「戦後の苦労の中でも輝きを増していった稀有なお方」
と語っています。

昭和天皇の側近たちが

「このお方が親王様だったら」

と残念に思ったほど優秀でした。

(対してやっと生まれた男子の継宮明仁親王は何事も後ろから数えて2,3番目というほど低いレベルでした)

日本の皇室は男尊女卑です。

生まれた時は臣民はもとより良子さまのお母様までガッカリしましたが、

昭和天皇だけが

「女の子は優しいからいいね」

と仰いました。

お姉さまである成子さまが継宮の前を横切ったら

「女の分際で東宮さまの前を横切るとは!」

と昭和天皇の側近から怒鳴られたことがありました。

(こういう周りの大人たちの反応がもともとバカだった継宮をさらにバカにしていった)

体調を崩されたのが昭和35年11月

大膳課主廚長の秋山徳蔵氏が語る東久邇成子さんの思い出話
(以下引用)
皇室の司厨長である秋山徳蔵氏が紹介している成子さんの親を想う心は、次の通りである。
昭和三十六年二月、成子さんは小康を得て国立第一病院を退院した。
そのとき、彼女は一冊の雑誌と、秋山氏あての手紙を使いの者に届けさせた。雑誌は婦人俱楽部の二月号で、そのなかの「ガンと女の一生」という記事のところに、手紙がはさんであった。
封筒はありあわせの髪をはりあわせたもので、ご飯粒でノリづけされており、表書きにはただ「秋山様」とあった。中は、ありきたりの付箋二枚に、丁寧にペンで書かれていた。その原文は次の通りである。
「長い間の病院生活中、毎日毎日、御料理を苦心して下さって有難う。折角のものを食欲がないばかりに、我儘をいって申しわけなく思っています。食事のことを考えるだけでなんだか胃がもたれるように感じたりして、ちょうど妊娠中のつわりみたいです。でも御蔭で少しずつ食べられるようになりました。
これまでレントゲンをかけていたので食欲もよけいなくなってしまったのだと思います。退院すれば気分も変り、少しずつ運動もついて、だんだんおいしくなるのではないかと思っています。本当に本当に感謝して居ります。又欲しいものが思いつきましたらお願いします。
婦人クラブ二月号をよんだら老人向の食生活のことが出ており、両陛下もだんだんお年を召すので、お病気になってからは侍医が考えるでしょうけれども、それではおそいので、今からお食事についてお気をつけになった方がよいと思います。勿論充分考えておられるでしょうが、親孝行の一端として、これでもよんで参考にして下さいませ。
陛下は直接申し上げると一々気にあそばすし、御料理の材料でなるべく気をつけてさし上げる方がよいと思います。
では寒さの折御大切に。
秋山司厨長へ      成子」
この手紙を受け取ったときの秋山氏の気持ちは筆舌に尽くし難かった。
秋山氏は次のように述べている。
「泣き虫の私は、途中から熱いもので目が霞んでしまい、読み終わってからも、しばらくは涙が止まらなかった。雑誌につけてあった折り目の個所を開いてみると、鴫谷亮一医博執筆の『動脈硬化症』という記事で、そのなかに食生活の注意が、二、三出ていたのであった」
心づかいは、目立たないからこそ心づかいなのである。

(『上流夫人』161~162ページより引用 原文ママ)

成子さまが亡くなったのは昭和36年7月23日

この時から5か月後のことでした。

ガンであることはご本人には秘されていたので成子さまはご存じなかった。

まさかご自分の方が両親よりも早く逝くとは思ってなかったのかもしれません。

またこんな素敵なエピソードも

日活ホテルのアーケードでビューティー・パーラーを経営しているアーデン・豊子さんの回想では―、
「・・・・・・おぐしのおととのいがすみ、お帰りの折、『お車を……』と申し上げると『バスで帰るから結構よ』とおっしゃって、さっさとお帰りになりながら、いたずらっぽく、ニコニコとなさって『お宅のお客様全部お帰りにお車のサービスをなさるのならだけど、私だけなんでしょう。そんなことしたら民主主義にかないませんよ』t私はギャフンとまいって頭をさげるほかありませんでした。私は、この話を誇りとして、外国婦人たちにいたしますが、アメリカ婦人なぞは『プリンセスが』といって、びっくりします」
皇室の存在を快からず思っている人は別として、大部分の日本人は、この話を誇りにするはずである。
どういうわけか、たぶん、他の内親王にくらべて臣籍降下が早かった故であろうが、成子さんの、こうした内面は、あまり世間にしられていない。私自身、この稿の執筆にあたって、調べていてびっくりした。

(153ページより)

特別扱いはしなくて結構!

「うちには男が2人いるんだから特別扱いしろ」と言ってるどっかの宮家に聞かせたいですね。

あ、あと藤島泰輔はこんな風にも言ってる

こうして、私が、東久邇成子さんについて、くわしく書いているのは、上流夫人のマナー、心づかい、精神といったものが、彼女によって代表されているように思えたからである。
我が国においては、上流社会と上流夫人というものが、ひどく誤解されている。
上流夫人とは、召使いをこき使い、権高く、高飛車で、冷たい性格の持ち主であると思われがちである。上流社会では家族間の情愛など、まことに索漠たるもおに違いないと想像する向きもある。
だが、真の上流階級の精神というものは、それを支えている階級の人々に対する奉仕と思いやりの精神に満ちているものなのだ
(160ページより)

うーん、職員に屈辱的なあだ名を付けたり、「あそこにだけは行きたくない」と言われ、職員が数年で辞めるような宮家に聞かせてやりたいわー

≪追記≫
何度も何度も列外派で書いてますが、

昭和天皇と良子さまは愛娘を失った悲しみを癒すために那須へご静養されました。

東久邇成子さまが亡くなって一か月も経たないうちに昭和の皇太子夫妻は両親の元へ行きました。

東京からわざわざ那須へ行った。

そして夜遅くまで自分たちのどうでもいい不満を訴え続けた。

入江日記
昭和36年8月16日(水)快晴
那須で東宮同妃から両陛下にいろいろのこの間からのことを十時すぎまで率直にお申し上げになったとのこと。お上はよく分かったと仰せになったが皇后さまは終始一言もお発しにならなかったとの事


庶民でも「四十九日が過ぎるまではそっとしといてあげましょう」と思うのに

次の時代の国の象徴になる人がこういう行動したのよ!

そして昭和が終わると天皇になった。

みなさーん!

リョーヘーカってこういうことしてる人たちですよー!
プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@excite.co.jp

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