良子皇太后の侍医のお話

雑誌『正論2000年10月号』に掲載された良子さまの皇太后時代の侍医だった永井良樹医師の話をご紹介します。

タイトルは「随筆衆人愛敬 香淳皇后の思い出」

昭和天皇を看取られた高木顯侍医長が平成3年に皇太后侍医長を引退され、空席となった侍医になられたのが永井良樹医師です。

まあ中々大変なもので、

電車通勤は禁止(風邪などのウィルスを持ち込まない為)
御所の前の通りの土手は蛍が出るほど清浄なところだからその環境を乱さないように車の移動には配慮が必要
日記は付けちゃダメ(後日残した言葉が様々な憶測を生むから)

しかしそんな気を使う環境の中でも永井医師の癒しとなったのは良子さまでした。

永井医師が侍医になった頃は車イス生活でした。

永井医師がリハビリを勧めたところ承諾されリハビリをすることになりました。

具体的なリハビリはこのように記されてます。

皇太后陛下はお部屋の前の廊下に車椅子に腰掛けて座っておられる。おそばに看護婦が一人立っている。一礼の後、陛下に向い合うように立ち、車椅子の足載せを左右に飜し、両足を廊下の上にお付けいただき、右手で陛下の左手首を、左手で陛下の右手首を下から握るように当てがい、ひょいとお引きすると陛下は車椅子からお立ちになりました。陛下の両手を引くようにして私が後じさりすると、陛下は前の方に歩かれる。ゆっくりと後じさりしながら陛下をお歩かせ申上げると意外にもどんどん歩かれる。お歩きの速さが速くなり過ぎないように注意しながら後じさりを続けると、最初の頃は何ともなかった御息が少しずつ弾んでこられる。小休止して再びお歩きになり、しばらくすると再び御息が弾まれる。(中略)歩かれる陛下は真剣で、力をこめて廊下を踏みしめて行かれる。お部屋の前の廊下に迄戻り、どこに待っているお立ち遊ばした時のままの状態の車椅子にお掛けになり、リハビリはおしまいになる。

まあ歩行練習ですね。

一般的に高齢者はリハビリを嫌がるのですが、良子さまはリハビリにも真剣に取り組まれました。

永井医師は平成5年に退職されました。

それまではかなりリハビリをご静養先の御用邸でも頑張られてました。

良子さまの斂葬の儀には永井医師も参列されました。

キンジョーの御誄が済み、森総理の誄が始まると雨が降り出しました。
この雨により、参列者は連日のうだるような暑さから救われました。

良子さまの症状が悪化した背景にはリハビリに取り組まれた永井医師が平成5(1993)年に退職されたこともあるんじゃないかな。

96年の時点ではもう箸もスプーンも持てず女官さんが世話をする状態となられました。
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物議を呼んだ良子皇太后陛下93歳の写真公開

2000年という20世紀最後の年に97歳で崩御された良子さま

実は96年5月9日に宮内庁が突如93歳の良子さまの写真を公表するということが起きました。

公表された写真は吹上大宮御所で車いすに座られている良子さまの写真7枚

同時にテレビ局には8分間の映像も提供されました。

カメラマンによる良子さまの写真が公表されるのは昭和62年が最後で、あまりにも突然のことでした。

また最後に記者会見されたのは昭和51年の昭和天皇在位50周年の時。
昭和62年を最後に天皇ご一家の正月写真にも入られてません。
なので晩年の昭和天皇はお一人で公務にお見えになられてました。

どう見ても“老人特有の症状”がありありと分かる良子さまの写真と映像に国民は衝撃を受けました。

63年間も皇后陛下だった良子さまが!と驚かれたのです。

週刊文春95年5月30日号の記事を入手しましたところ次のように理由が書かれています。

5月2日、井関英男皇太后宮大夫が記者クラブで突然記者会見を開いた
これまで良子さまのご近影は年に一、二度の葉山御用邸にご静養でお出かけになられる際に乾門でバスのカーテンを開けて窓越しに一瞬撮影させる時だけでした。
これを中止したいと申し入れたのです。
宮内庁内部からも以前から「バスの窓越しの撮影なんて被疑者のようだ」という声がありました。
皇族や女官さんたちからも「もう一切写真は出さないで」と強く反対する声もあったこともあり、井関大夫は代替措置としてご近影を公表することになりました。

井関大夫は「良子さまの許可はちゃんと取りました」と言ってるのですが、かなり怪しい。

というのも週刊文春の取材を受けた宮内庁職員という人間はこのように言ってる。

「普段はごくたまに、ご機嫌のよろしい時に女官に何かおっしゃる程度で、お側にお仕えしていてもここ十年近くお言葉をいただいていない側近もいます。しかし、昭和天皇のお話をすると、耳を傾けられるようですね」

で、しかも撮影をした時間がいつも昼寝をされる時間の午後だったから当然良子さまは眠い。

普段以上に老人特有の症状が如実に出てしまった。

この写真動画公表は波紋を呼びました。

反対派の声
「国民が果たしてこういう写真を見たいと思うかどうか。むしろそっと差し上げたいと思うのではないでしょうか。自分のこととして置き換えてみれば分かることでしょう。九十三歳の自分の母親の姿をいったい誰が公にしたいと思いますか。天皇陛下もこの写真が公表されたことにショックを受けておられると聞きました」(皇室に近しいある男性)
「あのような写真を公表するのは、皇太后陛下ご自身に対して失礼ともお気の毒とも思います。なぜ老衰したお姿を国民の前でさらしものにする必要があるのか」(明星大学小堀桂一郎教授)
「一般に写真を公開する場合にはご本人の許諾を得るのが原則です。皇太后さまの今の健康状態ではご本人の許諾があり得たのかどうか・・・・・・」(関西大学谷沢永一名誉教授)


賛成派の声
「僕はあの写真はたいへん良かったと思っています。先の大戦をめぐって険しい空気もあったなか、微笑みを絶やさない皇后陛下は現地の新聞に「スマイリング・グランド・マザー(微笑むお祖母さん)』と歓迎されたものです。当時とくらべれば、かけ離れた印象は受けますが、老いとうものは誰もが通る道です。僕らだってみな老いて病んで死んでいく。昭和の歴史とともに生きてこられた皇太后陛下の最近の表情がわかってよかった」(元朝日新聞編集委員岸田英夫)
「よくぞ公開した、宮内庁も頭が柔軟になったなと思いました。日本は高齢化社会に突入しましたが、現実としてどうやって老いていくかというのは大問題です。その意味で、この写真は『幸せな老い』のモデルとして問題提起を果たしている。写真を見ても実に介護が行き届いている感じじゃありませんか」(美智子教原理主義者の渡辺帽子)



賛成だけど疑問を持ってる派
「私はお写真を出したことは良いことだと思います。『皇太后さまはお元気だろうか』と心配する国民もありますから。ただ、あのようにお一人のお写真では孤独を感じさせる。天皇ご一家は日本の家庭の象徴でもあるのだから、両陛下やお孫さんたちが花束を手に皇太后さまを囲んでいる写真などが望ましかったのではないでしょうか。写真は出さずに、温かい家庭的なエピソードを紹介しても国民の共感は得られたと思います」(元中日新聞宮内庁記者平野素邦氏)

ヘカテー的は「これは良子さまに対する高貴高齢者コンビの嫌がらせだな」と思っています。

写真を公開する意味が分からない。

エピソードだけでいい。
もし写真や映像を公開するなら家族に囲まれている姿を撮った方がいい。

崩御されてからも「嫁を苛めた姑」と謗られる良子さま

ヘーセー最後の香淳皇后例祭の日に鹿児島県桜島は爆発的噴火し火砕流まで流れた。
鹿児島県と言えば良子さまの母君俔子妃のご実家島津家

あれだけ優しくしてあげたのに懇意のマスコミ使って自分や義妹たちを悪く書かせ、
かわいい孫の徳仁皇太子殿下ご夫妻とその愛娘を苛めるバカ息子と底意地の悪い嫁に対する怒りに見えるぜ。

昭和32年 天皇皇后両陛下愛知県行幸啓

こんなの見つけちゃったニャー



お出迎えの愛知県民の数がマジ半端ない!

いやー、愛知県ってこんなに人がいたんですね。

今から60年前です。

愛知県も名古屋大空襲や熱田空襲で大変な被害を受けましたが、

よくここまで復興したなーと思います。

清宮さまのお言葉が素敵!「私の選んだ人を見ていただいて」



清宮貴子さまの成人に際しての記者会見で好きな男性のタイプは?と聞かれてのお言葉

「私の選んだ人を見ていただいて」

うーん、いいですねー。

記者も自然に笑顔ですよ

島津久永さんとのご結婚の際のお言葉も素敵

サラリーマンの奥さんになりますが、家計のやりくりできますか?

との質問に対して

自信はございません

と笑顔で仰る



時代も変わったという感じです。

戦中だったらこんな風に記者は話せないもん。

記者会見もあり得ないんじゃないかなー。

照宮成子さまは東久邇盛厚王と結婚されましたが、

同じ皇族といっても天皇の娘である成子さまと分家の分家である東久邇家では格が違いすぎてそれほど親交はなかった。

本当は昭和天皇のお側で研究のお手伝いをしたいと考えられてましたが、

そうもいかず結婚させられました。

戦中だったから天皇の第一子であるのに質素に行われました。

すごいことに東京大空襲の最中に防空壕でご出産されたのです。


成人された敬宮さまが質問に対して

「好きな男性のタイプですか?私の選んだ人を見てください」

とユーモアにお答えになられたらめちゃくちゃ萌えるな

迪宮、淳宮、光宮の皇孫殿下のかわいい話

『思い出の昭和天皇』という本があります。

これは昭和天皇の身近にいた人たちにインタビューをしたものです。

第一章 東久邇信彦氏・壬生基博氏
(昭和天皇の外孫で東久邇成子さんのご子息)
第二章 池田厚子さん
(昭和天皇の第四子で岡山の池田家に嫁がれた)
第三章 秩父宮妃勢津子さま・高松宮妃喜久子さま
(昭和天皇の弟宮のお妃)
第四章 寛仁親王
(三笠宮さまの第一子で皇族辞めたいと言って昭和天皇にものすごく怒られた方)

第三章の勢津子さまと喜久子さまのお二人のインタビューした章でめっちゃかわいい話を見つけましたのでご紹介します。

以下太字の大きな文章は上記本からの引用です。

秩父宮妃
お三方さまに、三田市する方々や地方からなど、おもちゃとか、スポーツ用具とかお人形や、土地の名産など「皇孫さまに」といって献上があったようです。お人形のときのことが書いてありましたけれど、お三方まで、三つの人形をそれぞれお選びになるわけね。陛下はやっぱりそのころから兄上さまだからいつも弟さまたちに「お先に」とおっしゃるんです。

高松宮妃
なかなかできないことですわね

秩父宮妃
そういうようにお躾けられになったんですね。お子さまだし自分の欲しいものは欲しい。まず高松宮さまが真っ先に「ありがとう」とおっしゃってお取りになる。今度は、秩父宮さまがほんとうにめずらしく「お兄さまがお先に」とおっしゃるんですね。
そしたら陛下がびっくりあそばしたと同時にやっぱりお欲しいものをすぐにお取りになった。秩父宮さまは結局、欲しいものがなく、残ったものをやむを得ずお取りになった。涙を流さんばかりで。

高松宮妃
おかわいいわねえ。

秩父宮妃
ほんとうにおわかいいの。お側の拝見した人が書いているのだから、ではない。



いやー、かわいいですね。

昭和天皇の御称号が迪宮
秩父宮さまの御称号が淳宮
高松宮さまの御称号が光宮

昭和天皇と秩父宮さまって1歳差だからどっちがお兄ちゃんかおちびちゃんの頃は分かりにくいです。
(ほとんど身長が一緒)
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(ウィキペディアの大正天皇の記事より)

2016102817384171ds_20170310152051360.png
(貞明皇后が撮影した四人の親王さまの写真)

さらにこんなエピソードもあります。

秩父宮妃
お三方がご一緒に、当時の青山の皇子御殿でお育ちになって、そしてその後皇太子さまだけが、高輪の御所、つまり東宮御所にお移りになって、特別なご教育をお受けになることになったわけ。

高松宮妃
つまり東宮御学問所ね。

秩父宮妃
そう御学問所。それでお三人さまはお別れするときがきて・・・・・・。お別れのお悲しみはたいへんでした。秩父宮さまと高松宮さまが、そのとき冬だったもので、「明日は、雪になれ雪になれ、大雪になれ、大雨になれ」って祈ってらしたんですって。そしたら、ほんとに大雪で東宮さまが高輪へお移りするのがご延期になり、バンザイ、バンザイでみなさんお喜びだったと、それも書いてありますよ。ところがそう長くは降ってないでしょうから、その翌日は晴れて、いよいよお別れで、あとのお二方さまも別々のところの御用邸にいらっしゃることになりました。陛下は沼津、高松宮さまは小田原、うちの宮さまは葉山と、別々に違うところへおいでになったとあります。ほんとうにお気の毒でしたのね。


スッゲーかわいいんですけど!

ご兄弟は大きくなるとその立ち位置から戦争に関する考えは一致しない時もありました。

それでも仲はよかったのです。

兄宮は弟と思い、弟宮は兄宮の役に立とうとした。

昭和天皇は体の弱い弟を一方的に虐める兄ではなかったし

弟宮さまたちもたとえ兄弟であっても身分が違うということをわかっていた。

三笠宮さまは二人の兄上に「兄貴よりもうちのほうが偉い。なぜなら男の子がいるから。そっちの予算をこっちに回せ。金寄越せー!」なんて仰らなかった。

昭和天皇の息子が大正天皇みたいに子煩悩で気取ったところがない優しい人だったらこんなヘーセーにならなかったでしょうね。
プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@excite.co.jp

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