アンチ東宮って本当に嘘つきだわー

こんなことを言ってた下女がいたそうです。

329 名前:名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中[sage] 投稿日:2009/03/16(月) 23:52:52 ID:wm/RJhAA0
トン切りですみません。
AERA最新号「”同期”雅子さまへ私たちが言えること」の中に、
金融機関勤務の女性発言として、
「雅子さまは物静かで控えめで、いつも聞き役に徹していたのを覚えている」
とありますが、これどなたの妄想発言ですか?という感じがしました。

学生時代の彼氏が、外務省の試験で彼女と3次試験まで一緒だったのですが、
一番堂々としていたそうですし、彼氏に対する最初の挨拶が
「あなたどちらの学校?(フフン)」
「お父様は外務省?あら、サラリーマンなの、あっそう」だったとのこと。
週刊誌って、本当に都合のよい同期を見つけてくるものですね。


3次試験で一緒だった元カレ

じゃあ、雅子さまの時代の外交官試験ってどうだったのかというと・・・

旧外交官試験 試験科目
(一次試験)すべて筆記試験
○一般教養(択一式)
○憲法、国際法、経済理論、外交史、外国語(和訳・外国語訳)
(注:英、仏、独、露、西、アラビア、中国語のうちから選択)(記述式)
○選択科目:行政法、民法、財政学、経済政策のうちから任意の1科目(記述式)
(二次試験)
○口述試験:憲法、国際法、経済理論
○筆記試験:外国語作文及び総合試験(集団討論の問題について個人としての提言乃至意見を記述する。)
○人物試験:個別面接、集団討論
○身体検査


2次試験までしかないんだけど(笑)

恥ずかしい(笑)

「外交官試験は難しいから三次まであるはず!」という思い込みで書きこんじゃったんだね。

元カレは一体どこの国の外交官試験を受けて、どんな雅子さんと出会ったんだろう。

ちなみに1993年から試験制度が変わりました。

毎日新聞 1992.05.25
外務省は来年度の外交官試験から、面接・人物面を重視し、学科試験を簡素化するなどの
改善を行う。外相の私的諮問機関「外交強化懇談会」(瀬島竜三座長)の提言を受け入れ
たもので、学業だけでなく、人物的にも優れた外交官を採用するのが狙い。
主な改善点は
(1)受験資格の上限を従来の二十八歳未満から三十三歳未満に引き上げる
(2)一次試験の行政法、民法、財政学、経済政策からの選択数を二科目から一科目とする
(3)論文は集団討論の要点をまとめ、提言を書く--など。
面接試験の担当官も官房長、人事課長らに加え、新たに人事院幹部も参加する。
これまでのキャリア外交官採用試験は、
一次試験が一般教養、外国語、憲法、国際法などの筆記、
二次試験が憲法などの口述と外国語、論文の筆記、そして個別面接・集団討論の人物試験
などだった。


新制度でも2次までですね。

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毎年恒例の音大の学生の演奏会



雅子さまがお元気なご様子で嬉しい限り!

映像ではわかりませんが、


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雅子さまのお隣が華子さまと皇太子殿下でした。

安心できる席順ですね。

正田英三郎証言「結構皇太子一家と会ってるし、御所にも呼ばれてるよ」

『「週刊新潮」が報じたスキャンダル戦後史』という本を買いました。

この本は昔の週刊新潮の記事を再録したものです。

その中に「こ、これは皆さんに紹介しなくては!」と思う記事があったので紹介します。

昭和57年9月2日号
「美智子妃のご実家 正田家の「栄光のなかの孤独」


匿名の正田家の知人が

「正田家ってかわいそう。美智子さまが皇太子妃だから大人してるし、東宮ご一家と交流もできない・・・」

とまあ平成でも言われていることを言っています。

まあ、ここまで読んでいると

「はいはい、正田家はかわいそーかわいそー」

と心の中でうんざりします。

で読み進めているとなんとこんなことをしていた。

さて、当の正田家は何というか。そろそろ、英三郎氏にご登場願わねばなるまい。建築後五十年たつという東京・池田山の正田邸には、冷房の設備がない。謹直な背広にネクタイ姿の英三郎氏は、ウチワでわずかな涼を取りながら、あくまでもニコヤカに語る。

ミッチーパパキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

ええええ!ちょっと、週刊誌の取材受けてるよ!

平成の皇太子妃のご実家の小和田家なんて皇太子妃雅子さまに関する取材を受けたのってヘカテーが知る限り、たった一回『文芸春秋』にご婚礼直前のインタビューを受けただけだよ!

正田冨美さんはガンガン写真付きで出てるしスッゲーな正田家!

しかし正田英三郎氏は結構正直です。

英三郎氏のインタビューをまとめると

・正月や両陛下のお誕生日に宮中に招かれている
・外国の大使館と付き合うようになったし、大使主催のパーティーによく呼ばれるようになった
・宮内庁長官をはじめ、いい方が側近にいるから安心している
・美智子の具合が悪い時には一緒に葉山の御用邸でのんびり過ごした
・夏には軽井沢で自由に皇太子一家と会っていた
・日清製粉のテニスコートに皇太子一家を招いて一緒にテニスをした


ちょっと気になることも証言している。
美智子さまの婚約前のことです。

「私ども、もうさんざん、ご辞退申し上げたんですよ。それが最後は、ホラ、当人同士が電話で話して、決めちゃったわけ。しようがないよねぇ。もしも、あの時、娘が皇太子妃になっていなかったら・・・・・・。いまさらいったって始まらないから、考えたこともありませんがね」

ミッチーパパって結構暴露しちゃう人だな。

ミッチーは皇太子との結婚に実はノリノリだったのね。

勝手に決めちゃうってすごいな。

ただ娘が皇太子妃になってなかったら賞だけは閨閥を築けなかったけどね。

浩宮さまの加冠の儀の映像



ちょっとだけですが、良子さまのお声が拝聴できます。

何度も言ってますが、加冠の儀があるなら裳着を復活してほしい。

敬宮さまが十二単をお召しになって裳着をされる姿が見たーい!

被災者たちよ、わたくしたちに感謝しなさい!

週刊女性のWEBで見れる記事でりょーへーかの被災地慰問ツアーのことが書いてありました。
両陛下、東京駅では”50段”もの長い階段をあえて上られる理由 http://www.jprime.jp/tv_net/imperial_household/25420

てんのーへーか
>陛下は、'03年には前立腺がんの手術を受け、'12年には心臓の冠動脈の手術を受けられ、80歳を越えました。
>今回の東北ご訪問直前となる2月27日に発熱を伴う風邪の症状があり、28日の夜にインフルエンザA型との診断を受けられた陛下


こーごーへーか
>皇后さまは、数年来の持病となっている左肩から左腕の頸椎症性神経根症による痛みがあります。さらに胸痛もあり、昨年8月に心臓の検査をし、冠動脈3か所に動脈硬化が認められるなど、心配な状況は続いています
>かなり注意深く見ないとわかりませんが、最近の美智子さまは右足を少し引きずっているように思います。


出た!へーせー皇室名物
「りょーへーかは満身創痍なのに○○された!」


平成劇場を見ているヘカテーは

「知るか!」

の一言です。

これって要はこういうことでしょ↓

「あたくしたちはこーーーーんなに体調が悪いのに来てあげたの!さあ国民よ、あたくしたちに感謝しなさい!」

いやいや、りょーへーかの実態ってこれじゃん↓


80歳超えてるのに走ってるじゃん!元気じゃん!

しかも被災地慰問ツアーで東京駅で階段を使ったことまで美談になってます。

10時48分発の専用列車に乗るため、両陛下は東京駅の21番線ホームに向かったが、自らの足で49段ある階段を上られていく姿があった─。エスカレーターも使えるはずだが、途中に踊り場が2か所ある、約50段の長い階段をわざわざ利用された“満身創痍”の両陛下。

以前、このブログで「りょーへーかがエスカレーターを使えないのはおじいちゃんおばあちゃんになったから。エスカレーターって足や目が衰えているお年寄りは使いにくいのよ」記事にしたことがあります。


「ただ単に、おじいちゃんおばあちゃんになったからエスカレーター怖くて使えないだけでしょ」と国民は冷静に思いますが、

美智子教原理主義者のこの帽子婆は違った。

「両陛下は国民や被災者への思いを込めながら、1段1段踏みしめて、階段を上られているのではないでしょうか。80歳を越えた両陛下がそうまでして被災地にいらっしゃるので、東北の人たちも歓迎し、励まされるのだと思います。50段近くある階段を手すりも使わず上られることは、驚異的なことです」

えええええ!

階段を使うことが国民や被災者のことを思っていることの証拠なの!?

被災地の人って「りょーへーかが階段を使っている姿を見ると元気が出る」と思うのかしら?

苦しい環境にあっても光り続けた小公女のようなプリンセス 照宮成子内親王 

酒井美意子さんの『元華族たちの戦後史』を読んでいたら結構東久邇成子さまのお話が出ていました。

たぶん照宮さまと言っても、東久邇成子さんと言ってもわからない人の方が絶対多いよね。

ヘカテーも知らなかったもん。

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照宮成子内親王

昭和天皇と良子さまの間に生まれた初めてのお子様
生まれたとき、女子だったことから家臣そして良子さまのお母さままでがガッカリしました。
しかし昭和天皇は「女の子は優しいからいいね」と誕生を喜びました。
慣例に従い学習院に入学
クラスメイトだった酒井美意子さんはこう思い出話を語っています。

勝ち気で滅多なことでは人のことに感心することのない私も、成子夫人だけにはかなわない、と尊敬できる方であった。同級生の間でも人気がおありで、私とその仲間の間ではだれもが憧れを持ってお慕いしていた方であった。

勉強も、スポーツもなんでもできる方でした。

昭和天皇の侍従や側近は「この方が男子であったなら」と何度も考えました。

ぶっちゃけ昭和天皇もそう考えたのかもしれません。

だって継宮って皇太子どころか男子としてあり得ないレベルだもん。

そのうえ皇族としての自覚も幼い頃からある方でした。
成子さまの作文がこちらです。

私はどういうめぐり合わせか高貴な家に生まれた。私は絶えず世間の注視の中にある。
いつどこにおいても私は優れていなければならない。
私は皇室を背負っている。
私の言動は直ちに皇室にひびいてくる。
どうして安閑としていられよう。高い木には風が当り易い。
それなのに高きにありながら多くの弱点を持つ自分を見るとき、この地位にある資格があるかどうか恐ろしくなる。自分の能力は誰よりも自分で一番よくわかっている。ともかく私は自分で自分を育て、築きあげていかなければならない。
この炭鉱の奥深くで、来る日も来る日も働き続け世間から忘れ去られ、そして人知れず死に行く運命をもった人々の前に立った時、護衛の警官やおおぜいのお伴をひきつれている自分の姿に、いたたまれぬ申し訳なさを感じた。


皇族である東久邇家に嫁がれ5人のお子様に恵まれた成子さま

戦争中は昭和天皇にくれぐれも軍に逆らうのはやめてくださいと再三訴えていらっしゃった。

暗殺を恐れたからです。

東久邇家は戦後は臣籍降下で平民となりました。

本当に大変で、鶏を飼ったり、セールに並んだりと終戦までなら考えたこともない苦労をされた成子さま。

しかし、そんな中でも輝きを失わない真のプリンセスでした。

正田美智子が皇太子妃に決まった時に良子さまも常磐会も旧皇族もみんなが反対しましたが、

成子さまは

「美智子さまは、お利口で気丈な方らしいから、皇室にお入りになっても大丈夫だと思うわ。アタマの悪い人や弱気な人だと、本人も周りも困るでしょうが、美智子さまはその点心配はなさそうね。ただお体がお丈夫でないと無理ではないかしら。皇太子妃というお立場は激務なんだから・・・・・・」
(酒井美意子著『元華族たちの戦後史』より)
と話しています

ぎくしゃくしていると知って親戚一同集めてホームパーティーを企画してくれる本当に優しい方でした。

佳人薄明という言葉があるように東久邇成子さんはガンに倒れました。

手術したものの既に手遅れの状態で、そのままお腹を閉じるしかありませんでした。

「おかしいな。私の家系にガンの者はいないはずだが・・・」と昭和天皇は戸惑いました。

宮内庁病院に入院された成子さまの枕元に飾るために花を切ることが良子さまの日課となりました。

見舞いに来た友人に語るのは5人の子どもたちのことばかり。

良子さまは施術師という詐欺師まがいの人間に助けを求めるまで動揺していました。

結局成子さまは35歳の若さで亡くなられました。

昭和36年7月23日のことでした。

その時、昭和天皇と良子さまはあまりの悲しさに泣くことも忘れていました。

昭和天皇は亡くなった成子さまに「どうもありがとう」とつぶやきました。

葬儀の日の青山斎場には7000人の人々が弔問に訪れました。

墓碑銘には「享年三十五 内外皆その徳を慕う」と刻まれました。

その時の映像↓
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大きな大きな存在を失った昭和天皇と良子さまは那須の御用邸で静養に入られました。

そこへ昭和の皇太子夫婦が突撃しました。

入江日記
「昭和36年8月16日(水)快晴
那須で東宮同妃から両陛下にいろいろのこの間からのことを十時すぎまで率直にお申し上げになったとのこと。お上はよく分かったと仰せになったが皇后さまは終始一言もお発しにならなかったとの事」


はい日付にご注目!

亡くなられてから一か月も経ってないんだけど!!!

昭和36年に亡くなられた。

と言うことは昭和35年生まれの浩宮さまという子どもがいるから我が子を亡くした親の悲しみくらいは想像できます。

列外派の読者の方がご指摘されてますが、

この昭和天皇の「よく分かった」という言葉はアッキー&ミッチーコンビの話の内容ではなく、「お前たちがどういう性格なのかがよく分かった」ということかもしれません。

こんな冷血な夫婦に子どもを育てさせたらどういう人間になるのか考えただけでも恐ろしい。

「跡取りである浩宮だけはちゃんとした養育係をつけ、そして自分の所に通わせて教育しよう」と決めたのです。

昭和の皇太子夫婦って「昭和天皇の名代」という形で国内外を旅していました。

浩宮さまを親から離すためです。

本人たちは「いろんな所に行けてチョー楽しー♪」とはしゃいでますが、

その裏にはまったく息子夫婦を信頼していない昭和天皇の考えがあったわけです。

ベルギー行きってどうなるんだろう

ベルギーで同時多発テロが発生しました。

ベルギーと言えば昨年からりょーへーかが「行く!」と懇意のマスコミ使って主張してるみたいですが、

どうなっちゃうんだろう。

一応平成28年は両国の外交関係樹立150周年を記念して「日本・ベルギー友好150周年」の年で、いろいろと催しを計画しています。

それでてんのーへーかが日本側の名誉総裁をしています。

普通はこういった友好の総裁は皇太子が就任しますが、ベルギーの皇太子は敬宮さまと同じ年の王女さまなので未成年ということでベルギーの名誉総裁が国王陛下です。

はい、ご注目!

ベルギーの皇太子は王女さまでしかも敬宮さまと同い年!

しかもベルギー国王はオランダ静養の際にわざわざ皇太子ご一家をお見舞いに来てくれた皇太子殿下のご友人。

そんな国にどの面下げて行くのかとひやひやだぜ!

嫌な話、このテロで

「ぼく朕行きたくない」
「そーですわ。わたくしも危ないところへは行きたくありません!」
「じゃあ、皇太子夫妻に行かせようよ」
「ええ、そうしましょう」

ってならないか心配ですよ。

皇太子ご夫妻はご存知の通り自分の務めを懸命に果たそうとされるお方ですから、危険だと分かっていてもご訪問される可能性が高いです。

まあ、ベルギーが「危ないから来ないでください」と言うかもしれませんが、それだと日本に対して「ベルギー=皇族も行けないくらい危ない国」と捉えられ観光客が減少する怖れがあります。

皇太子殿下の時はこんな感じです

りょーへーかの「沿道にまで歓迎の人がいなきゃヤダ!」という要求をよりにもよって被災地訪問の時にまで要求しているという話を記事にしましたが、

その息子である徳仁皇太子殿下はどうなのかということを実際にご覧になった読者の方からコメントを戴きました。

千さまコメント
夏の高校野球大会に皇太子さまがお出かけになった時 甲子園球場から近くの女子大に視察を兼ねて昼食にお出かけで 我が家の前を通られました。 事前に何も知らなかったので 今日は何やら警官が多いなあ くらいにのんびりしてました。よく見ると 制服の警官は辻ごとに、 他に白いポロシャツの私服風警官が 2メートルおきに立っていました。野次馬の私はポロシャツの警官に何事?と尋ねると皇太子さまが通過されると何だか誇らしげ。それでは と思い 家の前で待とうとすると、会釈されるのはあちらですよと促されました。家の前だからここで待ちますと言うと ご自由に というゆる〜い感じです。皇太子さまだって人間ですもの ずーっとお手振りして会釈してたら 気が休まりませんよね。ま、顔見るだけでいいやと、待つこと半時間ほど 各交差点で警官が交通整理を始め 信号が点滅しだして 警官の中にちょっと緊張感が漂ってきたと思ったら しずしずと黒い車が数台。あっという間に通過。でもなんか 晴れやかになりましたよ。 いつか ご一家お揃いで甲子園に 始球式が敬宮さまだったら なお嬉しいのだけど。

コメントありがとうございます。

あっさりしてますね。

皇太子殿下は昭和天皇流ですね。

酒井美意子さん怒る「橋本、テメーふざけんな!」

タイトルを読んで

「って言うかー、酒井美意子さんって誰ー?」

という方もいらっしゃるかもしれません。

というわけで簡単に説明します。

酒井美意子さん
1926年、東京生まれ。
お父上は侯爵。陸軍大将前田利為氏
加賀百万石の前田家の家柄を継ぐお家柄。
幼少時をロンドンで過ごし、帰国後、女子学習院を卒業される。
女子学習院では昭和天皇第一皇女照宮成子内親王とクラスメイト
元伯爵(姫路城城主)酒井忠元氏と結婚。
ハクビ総合学院学長、百合姿きもの学院学長を務める。
1999年10月5日ご逝去

酒井さんの著書『元華族たちの戦後史』を読んでいたら気になることが書いてありました。

昭和34年から「マナー」「エチケット」の執筆や講演をされるようになった酒井美意子さん
昭和40年の夏の初めに、光文社の「女性自身」の児玉孝也編集次長から電話がかかってきました。

「先週号の『兄弟(あにおとうと)両殿下への提言』を、お読みになりましたか」

この記事のサブタイトルは

「皇太子 常陸宮 そのご結婚の差から考える」

この記事の筆者は学習院大学時代の昭和の皇太子である明仁親王のご学友であった共同通信社の橋本明であった。

橋本明と言えば美智子教信者で徳仁皇太子ご夫妻を批判してる一人でおなじみです。

この橋本というおっさんはこんな記事を書いた

‟天皇家の次男である常陸宮の妃華子さまが、元華族の出身であることが気に入らない。現在平民出身の美智子妃(現・皇后)は、皇室内で孤立しておられるが、それは皇室をとりまく元皇族や元華族がそのように画策しているからだ。元皇族・華族のことの罪を許してはならない”
‟皇太子(現・天皇)は戦後初期のあまりにひどい元華族たちの腐敗ぶりと、手前勝手な生活を見て「華族からは妃を求めない」という信念を持たれ、美智子妃と結ばれた”
‟反美智子妃派をつくり、皇太子ご夫妻を旧派でかためようと考えた勢力は、消滅したはずの元皇族、元華族である”
(上記本148ページより)

これに酒井美意子さん激怒!

簡単に言えば、元華族をバカにしているのである。かりに今、元華族をいじめたところで、反論するような骨のある人物はいまい、とたかをくくっている態度に、私は腹が立っていた。

酒井美意子さんの仰る通りですね。
やっぱり、明仁皇太子のダチって類は友を呼ぶの言葉通り感じが悪いですね。

酒井美意子さんは戦後の混乱の時代に苦労した華族をいやというほど見てきた方ですから、
ふざけるなという思いでいっぱいでした。
(酒井さんご自身も大変でした)

酒井美意子さんはこう仰っています。

常陸宮の妃華子さまについては、皇后さま(現・皇太后)がお気に入り、話が進んだこと、そして、常陸宮は非常に両陛下(昭和天皇・皇后)思いの方なので、両陛下、とくに皇后さまが気にいっていただける方ならばということで決まったことなのである。

酒井美意子さんは橋本明に雑誌で反論しました。

そしてマナー評論家であった酒井美意子さんに「皇室評論家」という新しい肩書きが付けられました。



酒井美意子さんって人を見る目があるのかないのかわからない部分があります。

美智子さまとキーコさまのことを褒めてるんですよね。

雅子さまについては当然ながら、皇太子妃候補に挙がった時点で「小和田雅子さまをおいて、考えられない」と言い続けていました。
(理由は「皇太子妃はとびきり頭の良い方」という持論にピッタリだったから)

キーコさまについては

「世にいう”お育ちのよさ”ということは、歴史に残る名家や贅沢三昧な金持ちの家に生まれ育つこととは関係ありません。堅実で良識を持った家庭と、かつて上流社会の子女を教育するために、明治天皇と照憲皇太后によって作られた学習院という学校との双方から、適切に人間性豊かに躾けられた彼女のような人物を‟育ちがよい”というのだと、私ははっきり実感しています。(中略)‟3LDKのプリンセス”という言葉が流行ったように、紀子さまの本当に庶民的な暮しぶりや、あの笑顔を見て、国民は皆親近感を持ち、ああ、素敵な方でよかったと喜んだのです。また、礼宮さまも、ご次男という立場ですから、かなり自由に行動したり発言したりおできになれるはずです。ですから、礼宮さまと紀子さまは、今後は国民と皇室との架け橋として、うってつけの方々だと言えます」
(『婦人公論』に掲載された文章の一部を上記本で再録したもの)

常磐会会員の列外派読者の方に教えていただいたのですが、あまりの貴賤結婚に激怒した右翼が学習院女子の礼法室を放火したんですよ。

やっぱり華子さま以来の学習院出身の宮妃ということで甘かったのだろうか?

と言っても、酒井美意子さんがこの本を書いたのって1995年で、しかも1999年にお亡くなりだから、21世紀の平成皇室の異常さを知らなかったんですよね。

天国の酒井美意子さんは今も「美智子さまと紀子さまは立派」と思ってるのかな?



昭和天皇と那須の子どもたちの話

那須にお住いの高久甲さまのコメントをご紹介します。

戦争中の話です。
兵隊に行った大きいアンニャ(兄さん)が支那で戦死した頃。私の父とすぐ上の兄(私には伯父)、分家の従兄弟、父の姉の嫁ぎ先のいちばん下の弟、みんな10才くらい。
兄の戦死は名誉と教えられていたし、疑問に思う複雑な思考もなく、悲しみもせず元気に夏休みを迎えていました。
夏休みと言ったってどこかに遊びに連れて行ってもらえるわけでなし、カボチャ作って(栽培して)遊んでいたら、とてもよいカボチャが取れました。
「陛下に献上しよう」
まあ、何かよいものが収穫できたら陛下に献上と言う土地柄。いちばん幼かった私の父親の名前で「(戦死した兄の)遺族代表」と言う名目で親に申し出てもらい、子供らで大八車にカボチャ積み、御用邸に行ってしまったんです。門衛との押し問答は多少あったようですが、昭和の陛下はなんと、御用邸の建物からお出ましになり、子供らを待っていてくださったようで。(ご自分の皇子方とは離れて暮らさねばならなかった陛下です。なんとなく土民の子供らを哀れに思し召したのかもしれません。)
「カボチャも、こんなに大きくなるのだねえ」
「こんなに大きくては、私達では食べきれない。自分達で食べなさい」
昔のおとな、ことに戦争中で男手を取られて忙しい、子供の話も聞いている暇も気もない。それを「日本でいちばんえらい天皇陛下」が自分らの話を聞いてくださったと、田舎の子供らは大感動して(親より陛下のほうが好きだ)そう思った、これもまた昔の話です


コメントありがとうございます。

いい話だなー。

きんじょーへーかは「那須は嫌い」と記者会見で皇太子時代に言っちゃったけど、平成の次の時代の天皇陛下である徳仁皇太子殿下は那須がお好きだからありがたいですね。

プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@excite.co.jp

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