珍しくゴム長はいてるミテコさま

無題

ゴム長はいてますが、髪がセットしてます。
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華子さまのボディガード

華子さまとボディガード

ボディガード

山田秋良さん
妃殿下、おめでとうございますと涙で申しあげます。
お別れがつらいのです。この八か月は生涯の思い出です。

肺炎で高熱の体で出席した常陸宮さまの侍従

『週刊女性 昭和39年10月14日号』を読んでたらこんなことも書いてありました。

肺炎の身で出席の村井侍従
この朝、急性肺炎で宮内庁病院に入院していた村井長政侍従はベッドから妻に言った。
「モーニングを・・・・・・」
妻は身を堅くした。しかしすぐ家にとって返した。義宮さま付きの侍従として二十年、この日を、夫はどんなに待ちわびていたか。小学生の義宮さまが、中等部、高等部、大学をご卒業になり、今日まで影のようにおつきしてきた夫。それがご婚儀の二週間前、肺炎で倒れた。
「申しわけない・・・・・・」
夫は熱い息を吐き、涙ぐむのだった。
「テレビで見てください。身体を大事にするのです」
義宮さまはこのおことづけをくださった。
夫は肌着を替え、キチンと礼装しベッドに正座し、テレビに向かった。九時半、放送が始まる。常磐松御用邸から滑り出す宮さまのご乗用車。
一時間後、賢所からおふた方が消えたとき、村井侍従の右手のハンケチはぐっしょりだった。
常陸宮の称号をお受けしてから午後二時二十分、朝見の儀。
「末長く、仲むつまじく暮らすように」
との陛下のお言葉だった。
次に親子固めの儀。古式の膳に両陛下、両殿下がおつきになり、華子妃殿下は両陛下から、親子固めの杯を賜った。
両殿下が、その席から退出されたとき、常陸宮殿下はそこに病床で寝ているはずの村井侍従を見、ハッとされた。
今日までのご奉公だ、死んでもいい・・・・・・だからと村井侍従は、参列を医師に懇願した。医師はその執念にも似た心に触れ、できることなら・・・・・・と診断したうえで、「少しなら」と許したのである。
「ヨシ坊ちゃまが独立なさる日まで」を生涯の念願としてきた村井さんにとって、この医師のはからいは何にもましてうれしかったに違いない。
義宮さまに、遅刻のお詫びと、お祝いの言葉をのべる村井侍従の身体は、ともすればゆれた。高熱なのである。
かたわらにたたずまれているはずの華子妃殿下も、殿下と侍従の、この一瞬の光景に凝縮された心かようきずなに思わず、まぶたに熱いものを感じられたにちがいない。
この予期せぬ美談に、次のご予定は十分ほどおくれた


常陸宮さまのの侍従さんって命かけてるんですねー。

常陸宮ご夫妻へのお祝いの言葉

昭和天皇の言葉
天候にも恵まれて、本日、正仁親王の結婚の式をとどこおりなくすますことができたことは、国民各方面の協力によるところでまことにうれしく思う。
正仁親王は新しく宮家を創立することになったが、正仁親王と同妃が国民の期待に沿って立派に行動し、またよい家庭を築くことを願うものである。

皇后陛下
長い間、ひとりでいたので、心配していましたが、結婚が決まって、喜んでいます。
気だてが優しく、健康で聡明な華子は今後、いっそうの努力を重ね、皇室の伝統を守って、東宮夫妻の力となり、皇族としてのつとめを果たしてくれるよう望んでいます。
これからは、夫婦愛に基づいて、仲よく力を合わせ、いい家庭を築いてもらいたいと思います。

うーん、良子さまのお言葉を拝すると華子さまのことを本当にかわいいとお思いであることが分かります。

まあ皇太子妃が性悪で可愛げがまったくない人だったから余計にかわいいでしょう。

池田厚子さん
池田厚子さん
義坊さん、華子さんと明るい家庭を
義宮さま。
ご婚儀、おめでとうございます。
義坊さん―小さいころ、こう呼んでおりました―この度は、心からお喜びを申し上げます。最近、長いこと義坊さんとはお目にかかっていませんが、あなたのことはテレビや雑誌でいつも注意して拝見しています。
宮さまのご婚約をお聞きしましたのはこの二月、私が岡山の大学病院に入院中のことでございました。
日ごと快方に向かうころでございましたが、宮さまと華子さまとのご婚約の報は、病床の私にとって、なによりのお見舞い、なによりの高貴なお薬でございました。
私の病気のことでご心痛にあらせられた両陛下には、ご婚約成立のことは、非常なお喜びであったことと存じあげます。
義坊さんは、ご自分の小さいころのことを覚えてないかもしれませんが、とてもお身体が弱かった―。
両陛下はそのことをいつもご心配あそばされ、学習院の初等科を無事にご卒業できるかしらと、それはいつも案じられていた様子でした。
近ごろはすっかりお元気そうで、ゴルフをお始めになってから逞しくおなりになり、うれしく思います。
小さいころといえば、私たち姉妹は呉竹寮に住み、別々に生活しておりましたので、ほとんどお目にかかったことがございませんでした。
義坊さんが、大学に入ってからは、ときどき呉竹寮にお泊りに見えましたが、それまではご一緒に過ごしたことは、あまりございませんでした。
そんなわけで、義坊さんの印象といえば、戦争が激しくなって、ご一緒に学童疎開したことが思い出されます。
昭和十九年の夏でしたか、学習院の男子部と女子部とが日光に集団疎開をいたしました。両陛下やお付きの方のご心配をよそに田舎での生活は私どもには、珍しく楽しいものでした。植物採集や栗拾いにと、野山を駆け巡って楽しい毎日でした。
それが、女子部だけが急に塩原のほうに移ることになったとき、とてもつろうございました。
義坊さんと皇太子と、それに私の三人で、お別れの、写真を撮りましたね。そのときは、みんながふたたび生きて会えるかどうか・・・・・・悲しくて悲しくて手を取り合って、カメラの前に立ったのでした。



華子さま―
おめでとうございます。

お目にかかったことはございませんが、ご健康そうで、明るい、素敵なお方。
華子さまのお姉さまとは、学習院時代一年違いでしたが、よく存じあげています。
ご一緒にお話をしたこがございました。やはり、明るくて清潔な方でした。
華子さまは、テレビで拝見するごとに、健康で明るくかわいらしい印象が深まり、北白川の伯母さまに、よく似ていらっしゃるとかねがね思っています。
義坊さんはおとなしくて優しい方。私たち姉と妹がケンカすると、義坊さんはニコニコほほえんでいました。
そのようなもの静かな態度は、あのころから、将来はきっと学者になられる方だと思わせるものがございました。
でも、義坊さんは中等科のことから、詩をお作りになっていました。叙情的な詩でした。義坊さんのやさしいお心が、そっくりにじみ出ていました。
だから、きっと文科方面に進まれるとばかり考えていましたのに理科をお選びになったのは、たぶん、陛下のご影響でしょうね。
やさしい宮さまと明るい華子さま。
明るいご家庭をお築きになることを、そして、皇室の発展のためにお尽くしてくださるように、深くお祈りいたします。
お幸せにね。
華子さま


酒井美意子さんと藤島泰輔
酒井&藤島
両陛下がとてもかわいがられている妃殿下

(ということは昭和の皇太子妃はあんまりかわいがられてないということですね)
(まあ一々反抗してくる嫁なんて嫌だしな)

藤島泰輔はキンジョーヘーカの学友ですが、、

明仁皇太子とミテコ皇太子妃が大嫌いです。

その藤島泰輔が常陸宮ご夫妻をべた褒め

華子さまのお稽古の先生
お稽古の先生

そして華子さまのお姉さまのお言葉
お姉さま

そして・・・

なぜかこの人もいた

ミテコさまの母正田冨美
正田ふみ

(以上すべて『週刊女性 昭和39年10月14日号』から引用しました)

本日9月30日は常陸宮ご夫妻のご成婚記念日です

昨年は金婚式だったのに大きく取り扱うことができなかったので

今年は昔の雑誌を揃えたのでご紹介できます!

美しき門出

華子さま十二単

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こんなお写真も見つけました。

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一緒に写ってる女性は従姉妹の方です。

青森県弘前市に眠るご先祖さまのお墓参りにいらっしゃった華子さま
ねぶた祭りで
弘前で

二日連続で両殿下を拝見できて感激!皇太子ご夫妻が交流会議ご出席

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皇太子ご夫妻は29日、東京都千代田区のホテルニューオータニを訪れ、「国際青年交流会議」に出席された。療養中の雅子さまは28日にも国立劇場の開場50周年記念式典に出席しており、住まいの東宮御所を離れての公務は2日連続となった。
会議では、国際交流のため海外へ派遣された日本人青年や日本へ招かれた外国人青年が環境問題や教育をテーマに議論。ご夫妻は代表者9人による報告会に参加し、何度もうなずきながら熱心にメモを取っていた。
引き続いて催されたレセプションには、例年通り皇太子さまだけが出席した

北海道新聞HP

動画ニュースで見たいなーとワクワクしてたけど

出てこないからイライラ

さらに写真でも皇太子殿下だけでイライラ

雅子さまの衣装を拝見したいんじゃーい!

そしたら北海道新聞のHPに掲載されてました!

グッジョブ北海道新聞!

たぶんこの衣装も以前お召だったものでしょう、

それでも美しいです。

ミテコの反論コーナー「香淳皇后だって外出公務してたし!」

宮内庁HPの「皇室報道関係について」でまたミテコさま宮内庁が反論してます。


昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況について
平成28年9月23日
平成28年8月27日付け毎日新聞朝刊の「危機の20年」と題する記事の中で,原武史氏は「平成になると,宮中祭祀に天皇と皇后がそろって出席するようになったばかりか,行幸も皇后が同伴する行幸啓となり,」と述べています。

昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況については,これまでも宮内庁ホームページで事実関係を説明してきたところでありますが,こうした事実と異なる認識が依然として見られることから,改めてこの点についての事実関係を説明します。

香淳皇后は,ご晩年の20年近くは,ご高齢とご健康上の理由により,行事への御臨席が困難となられましたが,昭和52年に腰を痛められるまでの戦後約30年間の長きにわたり,昭和天皇と共に多くの宮中祭祀にお出ましになり,また,行幸啓を共になさっています。

宮中祭祀について見ますと,昭和21年から51年までの恒例の祭祀で,かつ,天皇皇后両陛下のお出ましが予定された364件のうち,昭和天皇とお揃いでのお出ましは213件(58.5%)を占めています。ちなみに,昭和30年以降で見ますと66.7%となります。

また,地方ご訪問について見ますと,昭和21年に開催された国体には,昭和22年の第2回石川県大会には昭和天皇が御巡幸を兼ねてお一方で御臨席になりましたが,昭和24年に東京都で開催された第4回国体以降は,昭和51年まで毎年,昭和天皇は香淳皇后とご一緒に御臨席になっています。また,植樹祭には,十勝沖地震のため御臨席を取りやめた昭和43年の第19回を除き,昭和25年の第1回から御不例となった昭和52年まで毎年春,昭和天皇とご一緒に御臨席になりました。なお,昭和21年から昭和29年までにわたる戦災復興状況御視察のための御巡幸は,当時,香淳皇后をお迎えできるような宿泊施設等が整っていなかったこともあり,昭和天皇がほぼすべてをお一方でなさっていますが,最終回の北海道御巡幸には第9回国体が北海道で開催されたことから,国体御臨席を兼ねて昭和天皇と香淳皇后のお二方でお出ましになりました。こうした戦後間もない御巡幸は別としても,昭和21年から51年までの地方へのお出まし78件のうち,昭和天皇とお揃いでのお出ましは73件(93.6%)を占めています。

このように,宮中祭祀や地方ご訪問については,戦後から既に天皇と皇后がお揃いでなさっておられ,御成婚後の今上両陛下は,これをそのままに受け継がれ,昭和,平成とお続けになっておられるものであり,平成になってから,宮中祭祀や地方ご訪問を両陛下でなさるように変わったという事実は全くありません。

以上のことについては,過去にも宮内庁ホームページで事実関係を詳しく説明し,繰り返し注意を喚起してきたところ(「昭和時代における香淳皇后の御活動について(平成21年12月4日)」及び「昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況について(平成25年4月3日)」)でありますが,未だにこうした基本的な事実を確認せずに皇室について議論がなされることは遺憾であり,第三者の対談ではありますが,この点の事実関係の誤認については毎日新聞社にも伝えました。

http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/taio-h28-0926.html

うん、あのさ

以前記事にしたんだけどさ、

昭和天皇がそもそも外出公務が少なかったのよ

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過去記事 昭和天皇の外出公務は非常に少ない! 昭和49年昭和天皇73歳の時の外出公務の回数 行幸啓19回、行幸6回、香淳皇后おひとり2回

昭和天皇と香淳皇后ご一緒(行幸啓)
定例的なもの(3回)
①全国植樹祭(5月岩手県5泊6日)
②国民体育大会秋季大会(10月茨城県4泊5日)
③全国戦没者追悼式(8月)
定例以外のもの(16回)
・外国交際(国賓接伴関係)3回
・式典 3回
・社会事業・産業等御奨励 1回
・公共施設御視察 3回
・展覧会 1回
・スポーツ 1回
・園遊会 2回
・地方行幸啓 2回
合計19回

昭和天皇のみ(行幸)
定例的と認められるもの(3回)
①国会開会式(1月、7月、12月)
②日本学士院授賞式(6月)
③日本芸術院授賞式(6月)
定例以外のもの(3回)
・外国交際(国賓接伴関係) 2回
・式典 1回
合計6回

香淳皇后のみ(行啓)
定例的と認められるもの(1回)
全国赤十字大会(6月)
定例以外のもの(1回)
展覧会 1回
合計2回


こんなに少ないのだ。

しかもこれでも他の年よりも多いのだ!

確かに昭和の時代も両陛下お揃いということもあった。

しかしそもそも外出公務自体が少ないのだから

馬鹿みたいに増やしまくった平成と比べるのはおかしい。

原先生は宮内庁に対して自身のツィッターでこう述べています。


>宮内庁ホームページの「皇室関連報道について」で毎日新聞8月27日付の私の発言「平成になると~となり」が「事実関係の誤認」とされたことに対して、改めて反論したい。天皇、皇后が共に出る宮中祭祀や行幸啓自体は、宮内庁が強調する昭和戦後からではなく、明治、大正の時代にも複数確認される。
>しかし、明治、大正、昭和は、宮中祭祀に天皇、皇后がずっと出ていたわけではないし、行幸啓もずっと行われたわけではない。平成は、宮中祭祀も行幸啓も天皇、皇后が一貫して行っている。この点で明確に違うと言いたかったのだ。「事実関係の誤認」ではなく「事実関係の解釈の違い」とするべきだろう。


まるっと同意ですな!

って言うかミテコさまはそんなに「出歩くの大好きなコーゴーさま」って思われるのが嫌なのか。

わざわざ懇意のマスコミ使って「皇后さまにいじめられるかわいそうな美智子皇太子妃」と昭和の頃から散々書かせまくったくせに、

その良子さまを持ち出すなんて!

両殿下お揃いで “50周年記念式典”にご出席



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皇太子殿下って本当に堂々としていて次の時代の天皇として安心できます。

雅子さまって本当におきれいですよね。

以前の少し硬い笑顔からお元気だった頃の雅子さまの笑顔に戻られて売らしい限りです。

東京国際ブックフェアでキーコさまが買った本は「こころの病気を抱える親と、その子どもたちへのハンドブック」

どうしても言いたいの管理人さまがリツイートされてた駐日フィンランド大使館のツイート

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>フィンランドのメンタルヘルスの第一人者が書いたこころの病気を抱える親と、その子どもたちへのハンドブック。

えー、キーコさまと言えば皇太子ご一家叩きを常とするテーミスで

「雅子さまがある会合に出られて久しぶりに笑顔を見せられていたらキーコさまは雅子さまの前で私はご病気ではありませんよと言った。雅子さまからしばらく笑顔が消えた。」

と書かれた人です。

また雅子さまに対して嫌がらせしてくる気か?

「愛子ちゃんにどうぞ。お母さまがご病気で愛子ちゃんはさぞかし大変ですからね。うちの子どもたちは母親が健康で幸せですけど、東宮家はそうじゃありませんから」

とか言ってこの本渡してくるとか

ドン引きするぐらい常陸宮ご夫妻を憎んでるキンジョーヘーカのご学友橋本明

『週刊女性 創刊50周年記念号 美智子さまと雅子さま』

という本を買いました。

そこに書いてあった橋本明の特別読み物が気持ち悪い

とにかくミテコさまをほめまくった後に書かれた常陸宮ご夫妻の記述

常陸宮さまの悪口

じつは昭和36年、高室内で「宮中聖書事件」と呼ばれる出来事があったんです。
ある日、皇居の御文庫(昭和天皇の住居)での団欒のとき。昭和天皇がそのころお妃選考が始まっていた常陸宮(当時は義宮)に、
「義坊ちゃん、そろそろ結婚する年ごろだけど、どういう女性がお嫁にほしいの」と尋ねられた。
義宮は「お姉さまみたいな女性がいい」と答えられた。そこで昭和天皇が「お姉さまのような人というのはどんな人なの」とお尋ねになられると、「ともに聖書を読める人・・・・・・」と、はっきりと答えられたのだという。
美智子妃はカトリック系の聖心女子大の出身。プレジデントと呼ばれる生徒会長でもあった。歴代のプレジデントは誰もが洗礼を受けていたが、幸い、美智子妃は唯一の例外だった。
それでもカトリックの教育を受けられた美智子妃は、義宮にとって好ましい身内でもあった。
というのも、幼いころに小児麻痺を患い、それを克服した義宮は、側近にカトリック信者の皇子傳育官がいたことおあり、中等科のころから急速にカトリックの教えに系統されていた。
「義宮はキリスト教にかぶれている」
そんな噂は私も耳にしていた。じつは、大学生のころ、私は高等科の義宮のと学習院の清明寮で同室だったことがある。実際、就寝前にアーメンと唱えて十字をきられてもいた。
ある日、その義宮が呟かれている言葉に仰天したこともある。
「神さま、橋本さんの、あの穢れた気持ちをお救いください。あの人は決して悪い人ではないのです・・・・・・」
こっそり布団の中から、義宮に目をこらすと、その表情は真剣そのものでした。
キリスト教にかぶれているどころではない、これは本物の信仰だと思いました。実際、送られてくる『嘉信』という無教会派の雑誌を、義宮は美智子妃に手渡したりしていた。
皇室には戦後はもちろん、戦前からカトリック信者の侍従や職員はいた。昭和天皇は側近の信教の自由はお認めになっていた。だが、身内の者はそうではなかった。義宮は第2位の皇位継承資格者、それだけに昭和天皇よりも直宮妃たちが衝撃を受けていた。だが義宮は自説を曲げなかった。
そんなことから、その後しばらくして、昭和天皇が激怒され、美智子妃は御前で土下座して謝られた・・・・・・。そんな噂が流れたんです。
しかし、それは民間出身の皇太子妃を快く思わない人たちが意図的に流した事実無根のことだった。後年、それを知った昭和天皇は、「私は(美智子妃)を怒ってはいない。そのような事実がないばかりではなく、心にも思ったことさえなかった。この文句どおりを東宮職に伝えるように」とおっしゃっている。


昭和天皇がそんな事実はないと言ってるんだから実に眉唾である。

っていうかこの常陸宮さまの発言含めて橋本が流した噂なんじゃね?

そもそもミテコさまの実家の正田家は正田冨美さん自身が

「正田家はクリスチャンです」

って言ってるからね。

こんな写真も撮られてるし

カトリックの女性が被るベールを身に着けるミテコさま
クリスチャンベール

常陸宮さまと同室だったていうのも非常に嘘くさい


さて、もっと橋本明がもっと憎んでるのが華子さま

華子さまへの悪口

昭和39年、義宮妃は旧華族(伯爵家)で学習院出身の津軽華子さんに決定した。おふたりの結婚で常陸宮家が創設された。
美智子妃にとって、義弟宮である義宮に嫁いだ華子妃は天性明るい気さくな性格の女性だった。ときにお付の女官が使う机の引き出しにこっそり生き物を入れ驚かせたりする。そんな無邪気な明るい女性だった。
だが、そんな人柄の華子妃を香淳皇后は猫かわいがりされた。そんなことから皇室内での美智子妃の孤立がますます深まっていったのも事実でした。
日本赤十字社には皇族室があり、そこで皇后をはじめ各宮妃がお針子姿になって奉仕される恒例行事がある。それに華子妃が加わってからは、美智子妃だけポツンと作業される姿が多くなったと日赤関係者は語っている。
香淳皇后や宮妃の会話の中心は、いつも華子妃であった・・・・・・。


お前どんだけ華子さま嫌いやねん

なんか華子さまのせいで美智子さまいじめがひどくなったみたいな書き方だな

酒井美意子さんが仰ってますが、

ご両親陛下思いの常陸宮さまは特にお母上の良子さまが気に入るお方を、と思われて華子さまを選ばれました。

華子さまのご成婚当時のお写真を拝見するに、

ものすごく自然体で素敵な笑顔です。

むしろ正田美智子の方が気取っていてナルシストであることがわかります。

美智子さまは孤立していたとか言ってるけど、

みんなから嫌われるような行動とってきて

「私いじめられているんです」

と言われてもねー。

喜久子さまが帽子の角度を直してあげたら5分もたたないうちに元の角度に直して、喜久子さまを「もう何にも教えて差し上げない!」と激怒させたのにね。

常陸宮ご夫妻のご性格がよくわかる写真をご紹介します。
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(長姉の東久邇成子さんのお子様と遊ばれる常陸宮さま。後ろにいらっしゃる成子さんの表情も素敵ですね)

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(甥っ子の浩宮さまをご覧になる常陸宮さまの表情が優しい)


華子さま
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プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@excite.co.jp

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