苦しい環境にあっても光り続けた小公女のようなプリンセス 照宮成子内親王 

酒井美意子さんの『元華族たちの戦後史』を読んでいたら結構東久邇成子さまのお話が出ていました。

たぶん照宮さまと言っても、東久邇成子さんと言ってもわからない人の方が絶対多いよね。

ヘカテーも知らなかったもん。

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照宮成子内親王

昭和天皇と良子さまの間に生まれた初めてのお子様
生まれたとき、女子だったことから家臣そして良子さまのお母さままでがガッカリしました。
しかし昭和天皇は「女の子は優しいからいいね」と誕生を喜びました。
慣例に従い学習院に入学
クラスメイトだった酒井美意子さんはこう思い出話を語っています。

勝ち気で滅多なことでは人のことに感心することのない私も、成子夫人だけにはかなわない、と尊敬できる方であった。同級生の間でも人気がおありで、私とその仲間の間ではだれもが憧れを持ってお慕いしていた方であった。

勉強も、スポーツもなんでもできる方でした。

昭和天皇の侍従や側近は「この方が男子であったなら」と何度も考えました。

ぶっちゃけ昭和天皇もそう考えたのかもしれません。

だって継宮って皇太子どころか男子としてあり得ないレベルだもん。

そのうえ皇族としての自覚も幼い頃からある方でした。
成子さまの作文がこちらです。

私はどういうめぐり合わせか高貴な家に生まれた。私は絶えず世間の注視の中にある。
いつどこにおいても私は優れていなければならない。
私は皇室を背負っている。
私の言動は直ちに皇室にひびいてくる。
どうして安閑としていられよう。高い木には風が当り易い。
それなのに高きにありながら多くの弱点を持つ自分を見るとき、この地位にある資格があるかどうか恐ろしくなる。自分の能力は誰よりも自分で一番よくわかっている。ともかく私は自分で自分を育て、築きあげていかなければならない。
この炭鉱の奥深くで、来る日も来る日も働き続け世間から忘れ去られ、そして人知れず死に行く運命をもった人々の前に立った時、護衛の警官やおおぜいのお伴をひきつれている自分の姿に、いたたまれぬ申し訳なさを感じた。


皇族である東久邇家に嫁がれ5人のお子様に恵まれた成子さま

戦争中は昭和天皇にくれぐれも軍に逆らうのはやめてくださいと再三訴えていらっしゃった。

暗殺を恐れたからです。

東久邇家は戦後は臣籍降下で平民となりました。

本当に大変で、鶏を飼ったり、セールに並んだりと終戦までなら考えたこともない苦労をされた成子さま。

しかし、そんな中でも輝きを失わない真のプリンセスでした。

正田美智子が皇太子妃に決まった時に良子さまも常磐会も旧皇族もみんなが反対しましたが、

成子さまは

「美智子さまは、お利口で気丈な方らしいから、皇室にお入りになっても大丈夫だと思うわ。アタマの悪い人や弱気な人だと、本人も周りも困るでしょうが、美智子さまはその点心配はなさそうね。ただお体がお丈夫でないと無理ではないかしら。皇太子妃というお立場は激務なんだから・・・・・・」
(酒井美意子著『元華族たちの戦後史』より)
と話しています

ぎくしゃくしていると知って親戚一同集めてホームパーティーを企画してくれる本当に優しい方でした。

佳人薄明という言葉があるように東久邇成子さんはガンに倒れました。

手術したものの既に手遅れの状態で、そのままお腹を閉じるしかありませんでした。

「おかしいな。私の家系にガンの者はいないはずだが・・・」と昭和天皇は戸惑いました。

宮内庁病院に入院された成子さまの枕元に飾るために花を切ることが良子さまの日課となりました。

見舞いに来た友人に語るのは5人の子どもたちのことばかり。

良子さまは施術師という詐欺師まがいの人間に助けを求めるまで動揺していました。

結局成子さまは35歳の若さで亡くなられました。

昭和36年7月23日のことでした。

その時、昭和天皇と良子さまはあまりの悲しさに泣くことも忘れていました。

昭和天皇は亡くなった成子さまに「どうもありがとう」とつぶやきました。

葬儀の日の青山斎場には7000人の人々が弔問に訪れました。

墓碑銘には「享年三十五 内外皆その徳を慕う」と刻まれました。

その時の映像↓
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大きな大きな存在を失った昭和天皇と良子さまは那須の御用邸で静養に入られました。

そこへ昭和の皇太子夫婦が突撃しました。

入江日記
「昭和36年8月16日(水)快晴
那須で東宮同妃から両陛下にいろいろのこの間からのことを十時すぎまで率直にお申し上げになったとのこと。お上はよく分かったと仰せになったが皇后さまは終始一言もお発しにならなかったとの事」


はい日付にご注目!

亡くなられてから一か月も経ってないんだけど!!!

昭和36年に亡くなられた。

と言うことは昭和35年生まれの浩宮さまという子どもがいるから我が子を亡くした親の悲しみくらいは想像できます。

列外派の読者の方がご指摘されてますが、

この昭和天皇の「よく分かった」という言葉はアッキー&ミッチーコンビの話の内容ではなく、「お前たちがどういう性格なのかがよく分かった」ということかもしれません。

こんな冷血な夫婦に子どもを育てさせたらどういう人間になるのか考えただけでも恐ろしい。

「跡取りである浩宮だけはちゃんとした養育係をつけ、そして自分の所に通わせて教育しよう」と決めたのです。

昭和の皇太子夫婦って「昭和天皇の名代」という形で国内外を旅していました。

浩宮さまを親から離すためです。

本人たちは「いろんな所に行けてチョー楽しー♪」とはしゃいでますが、

その裏にはまったく息子夫婦を信頼していない昭和天皇の考えがあったわけです。

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庶民でも、49日が済むまでは… と言うのに。

仏教でいうところの49日。
皇室は神道ですから神道なら50日ですね。

仏教葬儀をする庶民でも、49日が済むまでは静かにしておこう、49日が済むまでは事を起こしたり荒立ててはいけないと律します。

それは人としての矜持です。
使者への尊厳であり、遺族への配慮です。

でも明仁皇太子と美智子妃は50日どころか25日で押しかけた。
あまりにも酷すぎる!
人としてどうなの!?

このような夫婦が慰問などできるのでしょうか?
さすが、被害者たちが互いに助け合う姿が慰みになったと言える人だと思います。

成子さまがいてくださったら…

成子さま、長女というお立場からとても皇族、元皇族としてしっかりされていらした方でしたね。ご両親もさぞ頼りにされていたと思います。

お亡くなりになられたのが、あまりにも早すぎでした。成子さまのような元皇族の方が今お近くにいてくださったら、どれほど心強いか。

>私はどういうめぐり合わせか高貴な家に生まれた。私は絶えず世間の注視の中にある。
いつどこにおいても私は優れていなければならない。
私は皇室を背負っている。
私の言動は直ちに皇室にひびいてくる。
どうして安閑としていられよう。高い木には風が当り易い。
それなのに高きにありながら多くの弱点を持つ自分を見るとき、この地位にある資格があるかどうか恐ろしくなる。自分の能力は誰よりも自分で一番よくわかっている。ともかく私は自分で自分を育て、築きあげていかなければならない。

成子さまのこうしたお言葉をどこぞの筆頭宮家に聞かせてやりたいですわ。

またまた昭和天皇の話題、ありがたいです。天皇が戦後の国民の有り様を心配りながらも、次代のなさり様には多くはおっしゃらない。
以前は何もしらずに嫁いびりと受け取っていましたが、皇族である義母に美智子さんがかなうはず無いのです。元々が違う。
晩年の良子皇后を思うと辛いものがあります。とっかへひっかえグレーを着る人に近寄りたくないですね。

有る意味昭和の東宮が見限られた時

先帝陛下がご自分の息子、皇太子を見限った瞬間だったのかも。
かつてロシアの女帝エカチェリーナ2世も自分の手元で息子を育てられず、無能だった息子の皇太子夫婦を外国王室との親交を深め、見聞を広げる為と称し、外遊ばかりさせ皇太孫を自身の手元で養育したという事もありましたし。
私の身内には先帝陛下、陛下がお隠れの後には皇太子殿下にごく短いとはいえお仕へする事ができた者がいますが、その者曰わく皇太子殿下は昭和の陛下と皇后陛下のご薫陶を受けられ、またそれをご自分の糧としご自身でさらに高みに昇華する事ができる方。と言っていました。
今上ヘーカと皇后サマの外遊三昧も良い事が一つは有るんですね。
因みに彼の者曰わく、美智子サマは何も解ってない方、だそうです。

こんなことを言っても仕方ありませんが、もしも皇室が長子相続制であったなら…とつくづく思いますね。
照宮さまならば、それはそれは素晴らしい女帝陛下になられたことでしょう。
御夫君は東久邇宮さまで皇族でいらっしゃるから、血筋的にも何も問題はなかったですし。(お子さんもたくさん御生まれになったし)

どちらにしても、若くしてお亡くなりになったのが惜しまれます。
帝位は時代的にも無理だとしても、日本のプリンセスロイヤルとして、皇族の方々の束ねとおなり遊ばされたでしょうに。

「どうもありがとう」

そして、昭和天皇は成子さんが死去した日に、誰に対してだかわからないが、
「どうもありがとう」
と、呟かれたそうです。
当時、12才ほどだった成子さん(東久邇成子 照宮)の次男の方のお話です。
私は、
「照宮、私の娘に生まれてきてくれて、どうもありがとう」
だと思ってます。
この成子さんが昭和天皇に最もよく似ておられました。テレビの懐かしの映像で視たことがあるのです。目のあたり、そっくり。おつむのレベルも。
正直の話、継宮とは比較になりませんわ。継宮は♂ってだけだから。

入江日記

『近現代日本を史料で読む 「大久保利通日記」から「富田メモ」まで』 (中公新書)によれば、
入江日記は1日も欠かさずに書かれており、
全体の5分の1程度しか刊行されていないようです。
1978年に将来の刊行されることが朝日新聞社との間で決まって、
それ以降は当たり障りのない内容しか書かれていないとのこと。
ということは、現在、刊行されている部分は入江相政侍従長本人が、
選んだ可能性が高いと思います。
那須御用邸押しかけ事件や、有名な山田康彦東宮侍従長による諫言なども
入江侍従長が掲載を望んだということだと思います。
その意図は何でしょうかね。

とにかく、入江日記の完全版が待たれますね。
「いろいろのこの間からのこと」が生々しく書かれているはずです。

それにしても不思議なのは普段は歴史史料に基づいて
歴史を語るべきだと主張されている学者や昭和史研究者たちが、
今上陛下に関してはこういった史料を無視していることですね。
そういった意味では戦前の天皇絶対主義が続いているのですね。

照宮様、臣籍降下されてから「暮らしの手帖」に手記を書かれていた

次の朝ドラ「とと姉ちゃん」の大橋鎭子さんの本を読んでいた所、大橋さん・花森さんが戦後直ぐに刊行始めた雑誌「暮らしの手帖」に東久邇成子さんの手記を載せた、と書かれてありました。
「暮らしの手帖」の5号で、題名は「やりくりの記」です。

ググったら原文そのままにネットに出ていました。以下のURLがそうですよ。
http://kabanehosi.seesaa.net/article/384763300.html
プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@excite.co.jp

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