2016.12/01 [Thu]
昭和の行幸啓はこんなに大変でしたパート2
アスカが捕まっちゃったニュースで「YAH YAH YAH」が流れてるからちょっとマイブームになってるヘカテーです。
「今から一緒に これから一緒に殴りに行こうかー!」
って皇太子ご一家を叩いてる連中を殴りに行きたいわ!
いいえ、だめだわヘカテー、そんな考えは乱暴よ!
やるなら公衆の面前でパイ投げよ!
思いっきり恥をかかせるのよ!
さて親切な方に教えていただいたエピソード
天皇の行啓に関してです。実は私は南九州に住んでいます。今日、実は母と二人で都城島津邸に行ったんですね。最近整備されて、立派な都城島津家に関する展示館になってるんです。
その島津邸、1972年の全国植樹祭(鹿児島との県境の小林市とえびの市に近いひなもり台という所で開催されました)で、昭和天皇と良子皇后の宿泊先となってました。その宿泊前に、島津邸は両陛下専用のお風呂・寝室が用意され、そのお風呂は両陛下が使われた後には二度と使用される事はなかったみたいです。お風呂は、母の見立てでは総大理石でした。
如何に、行啓前の準備が大変かわかるエピソードだと思います。
その島津邸の前当主は、元学習院長の故島津久厚氏でした。
都城島津家って何?という方へ
江戸時代に入ると、北郷氏は4万石弱に及ぶ薩摩藩の最大の私領(一族功臣の領地)領主として重きをなした。 正徳2(1712)年11月、第4代藩主島津吉貴の時代に島津家の家格整備が行われ、その際に島津左衛門家(日置島津家)、島津周防家(花岡島津家)とならび島津筑後家(都城島津家)は、大身分に位置付けられた。大身分は、藩主へ挨拶をする儀式序列において一門四家に次ぎ、国老(家老)よりも上とされる。
大名といってもおかしくない石高を持つ分家でありそもそも足利将軍家より直接領地を安堵された由来があるため自立志向が強く、江戸時代初期には本宗家との確執が絶えなかった。その中、12代忠能以後は短命な当主が続き、15代久直から18代久理までは島津本宗家からの養子である。更に一時期当主不在の時代を迎える。
17代忠長のときに藩主の命により島津姓に復し、北郷氏嫡流の血統も断絶した[4]。これより以後を都城島津氏と呼ぶ。
江戸時代を通して都城領主としての地位は変わらなかったが、本藩窮乏のためいくつかの外城を上知している。
戊辰戦争には私領一番隊を派遣し、鳥羽・伏見の戦いから会津若松城攻めまで従軍した。
戊辰戦争後の藩政改革で私領が廃されると、都城島津氏も都城から鹿児島へ移ったが、家臣や領民による引止め運動が起こる。 代わって都城に着任したのが後に辣腕県令として名を挙げる三島通庸で、彼はそうした抵抗勢力のなかでの行政改革に腐心することになる。
明治になって都城島津氏は都城に戻り、戊辰戦争の功で男爵となった。
ウィキペディア先生 の本郷氏の記事より
都城島津邸HP
ちなみに都城島津家の本家である薩摩藩の島津家は良子さまのお母上の久邇宮妃俔子さまのご実家です。
総大理石のお風呂を一度だけ使ったら後は誰にも使わせない。
まあ恐れ多くて使えませんよ。
平成育ちのヘカテーでも恐れ多いもん
高貴高齢者コンビと秋篠さんちの場合は、昭和天皇とは逆の意味で絶対使いたくないな。
「今から一緒に これから一緒に殴りに行こうかー!」
って皇太子ご一家を叩いてる連中を殴りに行きたいわ!
いいえ、だめだわヘカテー、そんな考えは乱暴よ!
やるなら公衆の面前でパイ投げよ!
思いっきり恥をかかせるのよ!
さて親切な方に教えていただいたエピソード
天皇の行啓に関してです。実は私は南九州に住んでいます。今日、実は母と二人で都城島津邸に行ったんですね。最近整備されて、立派な都城島津家に関する展示館になってるんです。
その島津邸、1972年の全国植樹祭(鹿児島との県境の小林市とえびの市に近いひなもり台という所で開催されました)で、昭和天皇と良子皇后の宿泊先となってました。その宿泊前に、島津邸は両陛下専用のお風呂・寝室が用意され、そのお風呂は両陛下が使われた後には二度と使用される事はなかったみたいです。お風呂は、母の見立てでは総大理石でした。
如何に、行啓前の準備が大変かわかるエピソードだと思います。
その島津邸の前当主は、元学習院長の故島津久厚氏でした。
都城島津家って何?という方へ
江戸時代に入ると、北郷氏は4万石弱に及ぶ薩摩藩の最大の私領(一族功臣の領地)領主として重きをなした。 正徳2(1712)年11月、第4代藩主島津吉貴の時代に島津家の家格整備が行われ、その際に島津左衛門家(日置島津家)、島津周防家(花岡島津家)とならび島津筑後家(都城島津家)は、大身分に位置付けられた。大身分は、藩主へ挨拶をする儀式序列において一門四家に次ぎ、国老(家老)よりも上とされる。
大名といってもおかしくない石高を持つ分家でありそもそも足利将軍家より直接領地を安堵された由来があるため自立志向が強く、江戸時代初期には本宗家との確執が絶えなかった。その中、12代忠能以後は短命な当主が続き、15代久直から18代久理までは島津本宗家からの養子である。更に一時期当主不在の時代を迎える。
17代忠長のときに藩主の命により島津姓に復し、北郷氏嫡流の血統も断絶した[4]。これより以後を都城島津氏と呼ぶ。
江戸時代を通して都城領主としての地位は変わらなかったが、本藩窮乏のためいくつかの外城を上知している。
戊辰戦争には私領一番隊を派遣し、鳥羽・伏見の戦いから会津若松城攻めまで従軍した。
戊辰戦争後の藩政改革で私領が廃されると、都城島津氏も都城から鹿児島へ移ったが、家臣や領民による引止め運動が起こる。 代わって都城に着任したのが後に辣腕県令として名を挙げる三島通庸で、彼はそうした抵抗勢力のなかでの行政改革に腐心することになる。
明治になって都城島津氏は都城に戻り、戊辰戦争の功で男爵となった。
ウィキペディア先生 の本郷氏の記事より
都城島津邸HP
ちなみに都城島津家の本家である薩摩藩の島津家は良子さまのお母上の久邇宮妃俔子さまのご実家です。
総大理石のお風呂を一度だけ使ったら後は誰にも使わせない。
まあ恐れ多くて使えませんよ。
平成育ちのヘカテーでも恐れ多いもん
高貴高齢者コンビと秋篠さんちの場合は、昭和天皇とは逆の意味で絶対使いたくないな。
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確かに、陛下をお迎えするために設えた風呂を、お使いいただいた後、入れ替えたとは言え同じ湯に浸かるというのは、畏れ多かったでしょうね。