後桜町天皇が如何に大変だったか調べてみた件

改めて調べたらめっちゃ大変だった後桜町天皇

専修大学教授の荒木敏夫氏の著書『日本の女性天皇』(小学館)を改めて読み直したら後桜町天皇が中々実は大変な苦労をされたことがわかりましたのでご紹介します。


Empress_Go-Sakuramachi.jpg
(↑ウィキペディア先生の後桜町天皇の記事より)

桜町天皇の第二皇女として誕生した1740年8月3日に生まれた智子内親王

8代将軍吉宗の時代に生まれました。

1740年はオーストリアでマリア・テレジアがハプスブルグ家を継承した年でもあるのです。

幼名以茶宮(いさのみや)・緋宮(あけのみや)
諱を智子(としこ)

桜町天皇と女御二条 舎子(いえこ)の間にお生まれになられました。

桜町天皇は女御二条 舎子の間に盛子内親王と智子内親王、姉小路 定子典侍との間に遐仁(とおひと)親王の三人の子に恵まれました。

遐仁(とおひと)親王は1741年2月29日生まれ

1歳年下の異母弟にあたりますね。

二条 舎子との間に男の子が生まれなかったために、姉小路定子が側室として選ばれました。

遐仁親王は女御である二条舎子の養子として育てられました。

しかし大問題が発生

第一子盛子内親王⇒9歳で薨去

桜町天皇は28歳で遐仁親王に譲位

遐仁親王はこの時6歳でした。

桃園天皇即位

その3年後に31歳の若さで桜町上皇は崩御

(そもそも桜町天皇の父である中御門天皇も35歳で崩御してます)

桃園天皇はもっと早く何と22歳の若さで崩御

若くして崩御したから子どもが二人しかいない。

一条富子女御との間に生まれた親王がこの二人

第一皇子:英仁親王
第二皇子:伏見宮第十七代貞行親王

父帝崩御時の英仁親王はまだ5歳

天皇が幼いと色々トラブルが発生しやすい。摂関家が当主らが会議を開き、あまりにも幼すぎるから桃園天皇の姉で桜町天皇の娘である智子内親王に中継ぎとして即位してもらおう!と決まりました。

>この決定は、皇位継承のような重大事は事前に江戸幕府に諮るとした禁中並公家諸法度の規定にも拘らず、「非常事態」を理由に幕府に対しても事後報告の形で進められた。また、明正天皇以来119年ぶりの女帝誕生となった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%A1%9C%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87

1762年9月15日 24歳で践祚。

即位の儀は1763年11月27日

即位の儀では内蔵寮が保管していた「古物」の女帝装束が運び出されていた。

礼服御覧(れいふくぎょらん)と呼ばれる儀式で、新しい帝が即位するにあたり、男帝と女帝の礼服を内覧するものです。

明正天皇は幼くしての即位だった為、新しく衣装を用意しましたが、

後桜町天皇は成人女性ということで孝謙天皇が即位の儀で着用したものが予定されていました。

しかし最後に袖を通してから1000年も経った衣装をそのまま着られるわけがなく、

実質ほとんど白を基調としたものを新しく作りました。

大事なことがありましてね。

後桜町天皇は大嘗祭を挙げることができたのです。

実は大嘗祭は今も昔も莫大な費用が掛かります。

昭和天皇も「次の時代の大嘗祭の費用は大丈夫?」と心配されてました。

宮中がもっと貧乏だった頃は

男の天皇であってもお金がなくてできない天皇もいたのです。

安定的に天皇が即位後に大嘗祭をできるようになったのは後桜町天皇の父の桜町天皇以降となります。

後桜町天皇は中継ぎでしたが、

践祚→即位→大嘗祭

という儀式をちゃんと経験されてきたのです。

後桜町天皇は親政で、日記にも政務のことが書いてあります。

甥である東宮の成長を喜び日記にこのように書かれてます

「東宮するすると成長、御長久ごはんじやう願共也。めでたし。」

と書かれてあります。

(上記本引用)

後桜町天皇即位から9年後、1770年11月24日

皇太子英仁親王へ譲位

この時英仁親王13歳

後桜町天皇31歳の11月だった。

といっても13歳と言ったら中学1年生です。

大好きな歌道を楽しむ時間は若干増えましたが、

まだ若い天皇を支える上皇としての務めがあったのです。

ご自分でも熱心に若い天皇を教育した方でした。



「主上も女御を得るまで成長したしやっと安心できるわー」

と思ってたのかもしれない後桜町上皇

ところが、また悲劇が起こる

1779年12月6日 後桃園天皇22歳で崩御

(元々病弱だったとのこと)

子どもは女御近衛 維子との間に欣子内親王ただ一人

しかもまだ1歳!

後桃園天皇には弟である伏見宮貞行親王がいますが、1772年6月に13歳の若さで既に薨去してます。

天皇やる人がいない!

後桜町天皇 この時39歳

今なら、39歳は十分若いのですが、

御覧の通り若くしてガンガン亡くなっていくし、

江戸時代の平均寿命って現代のようにちゃんとした戸籍が残ってないから学者によってもバラバラなのですが、

ネットでちゃちゃちゃっと調べてみると45歳というのもあれば、30~40歳という説もあります。

後桜町天皇の周りの女性を調べてみましたが、

後桜町天皇の生母二条舎子は75歳で崩御
桃園天皇の生母姉小路定子は72歳で逝去
後桃園天皇の生母一条富子は53歳で崩御
後桃園天皇の女御近衛維子は24歳で崩御
欣子内親王は68歳で崩御

39歳だと欣子内親王が13歳くらいになるまで生きてられるかちょっと厳しいかもしれない。



だからと言って後桃園天皇のたった一人の子である欣子内親王がいることを無視して傍流の宮家の皇族をただ連れてくるわけにもいかない。

そして、宮中と幕府が認めたのは

閑院宮典仁(すけひと)親王の子で9歳の祐宮を後桃園天皇の「叡慮」で後継に選ぶという途でした。

欣子内親王の夫としても年齢は釣り合う

そして崩御した後桃園天皇との血縁も4つの宮家の中で一番近い。

4つの宮家の中で一番新しい宮家(他は伏見宮、桂宮、有栖川宮)

ちなみに本当は後桃園天皇が崩御したのは10月29日でしたが、

それを隠して 

祐宮を後桃園天皇が跡継ぎに決めたと発表しました。



祐宮は本来なら聖護院で出家する予定でしたが、言わば完全に棚から牡丹餅で皇位が手に入ったのです。

ただやっぱり宮中でも幕府でも

「今の天皇は運が良かったから天皇になれた人」

と軽い扱いをされていた。

しかしこの時もまた先代の天皇の時と同じく若い天皇に熱心に教養を教えていました。

1780年1月1日 光格天皇即位

この天皇こそ今の天皇の直系のご先祖さまです。

欣子内親王ですが、二人の親王様を授かりましたが、幼くして二人とも薨去されてます。

そのせいもあるのかメンタルの病気を患い御所を彷徨い、後桜町院の怒りに触れたと伝えられてます。

68歳で崩御。

光格天皇ですが、改めてウィキペディアを見ると

結構ハッスル天皇だったんだなーと分かります。

子どもの数と側室の数多い。

ただやっぱり本当に夭折する子の割合が半端ない。

明治天皇も見てみると子どもの数も側室の数も多いけど、みんな幼くして亡くなるし、側室も産後の肥立ちが悪くて亡くなってるのです。

まあ21世紀も三笠宮家の三人の親王様を拝見すれば何が起こるのかわかりません。

比較的やっぱり女の人は長生きですね。

男の子は本当に弱い。

また世界が本当に狭くて他所の血を入れないから本当に血が濃い。

こりゃ健康な子は中々生まれないよ。
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皇統の危機。

当時の乳幼児の死亡率の高さは、医療水準の低さや衛生観念のなさによるのでしょうね。
ドイツからベルツ博士が招聘されるまで、明治天皇の皇子皇女もバタバタ薨去してましたから。
しかし、皇室が血統として瀕死の状態だと言うのは、江戸時代から変わっていません。近親結婚の連続で、不妊と女子しか生まれない状況がその証拠です。
「悠仁さままでは(天皇は)決まっている」
バカの一つ覚えのように繰り返す、チンケなプライドの持ち主だか利益追及の果てだかが湧いています。
そのヒサヒトサマ。41年ぶりに、極めて不自然に生まれた男子。
報道規制されて早や9年。
なんで報道規制され続け、情報統制され続け、隠蔽され続けなければならないのか。わあわあ女性天皇ヤダヤダヤダの前に、公開してくださいよ。来年夏は通過儀礼の遠泳でしょう。
まずそこから訊きたいですね。
ヒサヒトサマの顔知らない国民多いですよ。

禁中並公家諸法度

「天皇はただひたすらに学問にうちこむべし」

天皇の主務は学問だった江戸時代。
昭和時代(戦後)は、国事行為が天皇の主務のはずです。
昭和天皇は国事行為はちゃんとされていましたが、祭祀には消極的だったようです。
それでも偉大な天皇でした。

愛子天皇で問題ないと思います!
プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@excite.co.jp

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