高貴高齢者コンビまたやらかす 今度はルーマニア
お世話になってる方から教えていただいたこと
平成30年1月19日の官報に載っていた弔電↓

https://gyazo.com/5e161d3612c863c1c8cc643f76203188
ミハイ1世が崩御されたのは昨年の12月5日です。
葬儀も12月16日に終わってます。
なんでこのタイミング?と思いますよね。
実は今年になって安倍総理がルーマニアに行ってるんですよ。
1月16日にルーマニアの大統領とも会ってる。
おそらくルーマニア側から「うちの元国王陛下が崩御しました」という話題が出て、それで安倍総理が外務省を経由して宮内庁に連絡が入ったんじゃないのかという疑惑があります。
ミハイ1世の葬儀にはチャールズ王太子を始めとした現役の王族方もご出席されました。
2012年2月23日にスウェーデンの王位継承権第2位となるエステル王女が誕生した際にも高貴高齢者コンビは祝電を3月9日に贈ったということがありました。
ウィリアム王子とキャサリン妃との間に生まれたジョージ王子の時は生まれた翌日にエリザベス女王、チャールズ王太子、ウィリアム王子の三人にそれぞれ祝電を贈った。
生まれた子の性別で対応を変えるという日本の皇室の男尊女卑っぷりを見事に表した。
こういうことをするから欧州の王室から嫌われるのだ。
で、今回はルーマニア王室です。
「ミハイ1世って誰―?ルーマニア王室なんて聞いたことなーい」
と思う方も多いかもしれません。
ルーマニア王国とは?
1881年に始まったルーマニア王室
初代国王はカロル1世
彼はホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家の出身で、ナポレオン3世の母方従弟、プロイセン国王の親戚でした。
外国人君主の即位は政治的社会的安定のための解決策になるとして、自由主義者も保守主義者も賛成してました。
(ここが日本人とはちょっと違う考え方ですね)
カロル1世の治世へ48年という長さで幕を下ろしました
カロル1世は子どもに恵まれず、甥が跡を継ぎました。
フェルディナンド1世です。
1914年に即位した2代目ルーマニア国王フェルディナンド1世
第一次世界大戦中、ドイツ人であったにも関わらずフェルディナンド1世はドイツの敵である連合国側に味方した為、ドイツ皇帝は裏切り者としてフェルディナンド1世の名前をホーエンツォレルン家の名簿から消しました。
フェルディナンド1世の妃マリア王妃はヴィクトリア女王の孫にあたる方です。
第一次世界大戦でロマノフ家からペッサラヴィア、ハプスブルグ家からトランシルヴァニアとブコヴィアとバナートの一部を手に入れたルーマニアでしたが、それは同時に多くの異民族を抱えるということに繋がりました。それまでは文盲率40パーセントだったルーマニアでしたが、ブコヴィアでは60パーセント、ベッサラヴィアでは100パーセントまで上昇。
ルーマニアには油田があった為それを狙うヒトラーとスターリンの脅威にさらされてました。
1927年フェルディナンド国王崩御
即位したのが当時6歳だった王孫ミハイ1世
ミハイ1世の母はギリシャ国王コンスタンティノス1世の娘エレナ王太子妃
エレナ王太子妃の母はドイツ皇帝の娘です。
「なんで6歳児が王様になったの?」
と思われる方もいらっしゃるでしょう。
ミハイ1世の父であるカロル王太子は女性スキャンダルで王位継承を放棄させられており、父王崩御時愛人とともに国外逃亡してました。
ミハイ1世の摂政を叔父ニコラエ王子を含めた三人が務めました。
しかし3年後にカロル王太子が帰国し、息子を退位させ自分が国王として即位しました。
1930年、カロル2世即位
まあ女性スキャンダルで国外に愛人と逃亡したという時点で分かると思いますが、
王太子時代は息子のミハイ王子が生まれて父親になったというのに、スポーツカーに熱中し、国王としての修養を積むことなんて一切せず、自動車で走り回ってた。
イギリス国王ジョージ5世の母アレクサンドラの葬儀でロンドンへ行ったきりルーマニアに戻ってこない。
愛人のエレナ・ルペスクと逃亡したのです。
(エレナはユダヤ人で、後にマグダと改名)
逃亡と言っても名門ホテルのスイートルームで豪奢な生活をしてました。
息子から王冠を奪ったカロル2世でしたが、政治にも口出しするようになりました。
ルーマニアに呼び戻された愛人のマグダもやりたい放題
父親にハンカチ工場を始めさせ、カロル2世の肖像がプリントされたハンカチを兵士たちに押し付けて、その代金を給料から棒引きして兵士たちが抗議したり、莫大なお金を賭けたポーカーパーティーをしたり、マグダの親戚の建築家が宮殿の増築工事を請け負ったがその工事の見積もり書がどう考えても金額が大きすぎる等
秘密警察を作ってファシストや共産党員を拷問して殺害する等のことも行った。
王自身の独裁政治の為にあらゆる権力を握ったカロル2世。
遂にはヒトラーに石油の供給を保証してやるから、ドイツ軍の近代兵器を頂戴、自分に対して歯向かう勢力を排除する協力をしてと訴えるようになったカロル2世。
あのヒトラーから
「私の目から見ると、彼はルーマニア唯一の独裁者だ」
と言われるまでになりました。
1939年
スターリンがベッサラビアとブゴヴィナに侵出。
ブルガリアにドブルジャを奪われ、
ハンガリーにトランシルヴァニアを奪われた。
王宮周辺では国王退位を求めるデモが繰り返される。
1940年 ミハイ1世再び即位
カロル2世は「退位」という言葉を使わず、19歳の息子に王位を譲るという宣言書を発表する。
その後、王宮から美術品、宝石類、ドル札をたんまりと乗せた特別列車に愛人マグダと共に乗って西ヨーロッパに亡命。
これらを元手にカロル2世とマグダは贅沢な暮らしをした。
父親がぐちゃぐちゃにしたルーマニアを治めなければならなくなった19歳のミハイ1世はどんな気分だったのだろうか。
ミハイ1世は父王を一生許さず、二度と会うことはありませんでした。
父王とは違いほとんどの権力を持つことはなかったミハイ1世
1947年12月
ミハイ1世 退位&亡命
一説によると、
ルーマニア国内では駐留していたソ連軍に対する市民運動が激化して逮捕者が多数出ていました。
駐留ソ連軍の司令官はミハイ1世に対して「退位して国外に出なければ逮捕者を殺す」と脅され、事前に用意されていた退位文書に署名させられました。
こうして4人の国王を生み出したルーマニア王国は幕を下ろしました。
1948年 アンヌ・アントワネット・ド・ブルボン=パルムとアテネで結婚
(1947年の当時王女だったエリザベス女王とエディンバラ公の結婚式で出会い、亡命後に結婚しました)
イベリア航空のパイロットとして亡命生活を送りながらも「退位は無効だ」とルーマニア国王の称号を名乗り続けました。
1989年 ルーマニア革命でルーマニア社会主義共和国崩壊
1992年 ミハイ1世はルーマニアに一時帰国することを許可される
1997年 50年ぶりに市民権が回復される
(自宅はスイスにあるのでスイスとルーマニアを行き来してます)
2001年 ルーマニア共和国政府から特別な地位と認められ、住居・生計・活動費すべてが国庫で保証されるようになりました
大統領や首相からは「陛下」と呼ばれ、国土はなくとも「国王」として存在し続けました。
2012年のエリザベス女王即位60周年を記念した昼食会に出席されたミハイ1世

中央にホストであるエリザベス女王が座り、女王に近い席に即位した年数が長い王様が座ります。
1940年に即位したミハイ1世が一番格上です。
だからエリザベス女王の右隣に座ってます。
二番目が1943年に即したブルガリア国王ですね。
日本は9番目です。
「日本は一番古い歴史がある皇室だから偉いー」「日本の天皇は世界でただ一人のエンペラーだから偉い」というのは
ネット右翼の妄言なので信じてはダメですよ(笑)
欧州の王室では現存しない王室であっても現存する王室と同じ扱いをされてるのです。
それを頭にいれなければダメ。
それでも一番格上なのはエリザベス女王だと私は思います。
イギリス連邦にある国々のトップですから国土が大きい。
2017年12月5日 ミハイ1世崩御
スイスにある自宅で激動の人生を終えました。
2017年12月26日 ブカレストの旧王宮前で国民葬が営まれ、国民は元より欧州の王族も弔問に訪れました。

この方がルーマニア王室の現家長であるマルガレータ・ドゥダ陛下

「ルーマニア王冠の守護者」称号及び陛下という敬称を用いられてます。
ルーマニア王室も元々は男系男子継承でしたが、
ミハイ1世には女のお子様しか恵まれなかったため、2007年12月にルーマニア王家基本家憲が改定され、
マルガレータはルーマニア王室初の女性ルーマニア王太子となられました。
マルガレータ陛下は夫との間にお子様がいらっしゃらないので、妹のエレナ王女の娘エリザベータ王女が次の後継者となられます。
あとこのチャールズ王太子の後ろに座ってるふくよかな女性は現ロマノフ家の家長である
マリヤ・ウラジーミロヴナ・ロマノヴァです

参考文献
『ヨーロッパ最後の王たち』 ピエール・ミケル著、田辺希久子訳 創元社刊 1997年出版
『ルーマニアを知るための60章』六鹿茂夫著 明石書店刊 2007年出版
平成30年1月19日の官報に載っていた弔電↓

https://gyazo.com/5e161d3612c863c1c8cc643f76203188
ミハイ1世が崩御されたのは昨年の12月5日です。
葬儀も12月16日に終わってます。
なんでこのタイミング?と思いますよね。
実は今年になって安倍総理がルーマニアに行ってるんですよ。
1月16日にルーマニアの大統領とも会ってる。
おそらくルーマニア側から「うちの元国王陛下が崩御しました」という話題が出て、それで安倍総理が外務省を経由して宮内庁に連絡が入ったんじゃないのかという疑惑があります。
ミハイ1世の葬儀にはチャールズ王太子を始めとした現役の王族方もご出席されました。
2012年2月23日にスウェーデンの王位継承権第2位となるエステル王女が誕生した際にも高貴高齢者コンビは祝電を3月9日に贈ったということがありました。
ウィリアム王子とキャサリン妃との間に生まれたジョージ王子の時は生まれた翌日にエリザベス女王、チャールズ王太子、ウィリアム王子の三人にそれぞれ祝電を贈った。
生まれた子の性別で対応を変えるという日本の皇室の男尊女卑っぷりを見事に表した。
こういうことをするから欧州の王室から嫌われるのだ。
で、今回はルーマニア王室です。
「ミハイ1世って誰―?ルーマニア王室なんて聞いたことなーい」
と思う方も多いかもしれません。
ルーマニア王国とは?
1881年に始まったルーマニア王室
初代国王はカロル1世
彼はホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家の出身で、ナポレオン3世の母方従弟、プロイセン国王の親戚でした。
外国人君主の即位は政治的社会的安定のための解決策になるとして、自由主義者も保守主義者も賛成してました。
(ここが日本人とはちょっと違う考え方ですね)
カロル1世の治世へ48年という長さで幕を下ろしました
カロル1世は子どもに恵まれず、甥が跡を継ぎました。
フェルディナンド1世です。
1914年に即位した2代目ルーマニア国王フェルディナンド1世
第一次世界大戦中、ドイツ人であったにも関わらずフェルディナンド1世はドイツの敵である連合国側に味方した為、ドイツ皇帝は裏切り者としてフェルディナンド1世の名前をホーエンツォレルン家の名簿から消しました。
フェルディナンド1世の妃マリア王妃はヴィクトリア女王の孫にあたる方です。
第一次世界大戦でロマノフ家からペッサラヴィア、ハプスブルグ家からトランシルヴァニアとブコヴィアとバナートの一部を手に入れたルーマニアでしたが、それは同時に多くの異民族を抱えるということに繋がりました。それまでは文盲率40パーセントだったルーマニアでしたが、ブコヴィアでは60パーセント、ベッサラヴィアでは100パーセントまで上昇。
ルーマニアには油田があった為それを狙うヒトラーとスターリンの脅威にさらされてました。
1927年フェルディナンド国王崩御
即位したのが当時6歳だった王孫ミハイ1世
ミハイ1世の母はギリシャ国王コンスタンティノス1世の娘エレナ王太子妃
エレナ王太子妃の母はドイツ皇帝の娘です。
「なんで6歳児が王様になったの?」
と思われる方もいらっしゃるでしょう。
ミハイ1世の父であるカロル王太子は女性スキャンダルで王位継承を放棄させられており、父王崩御時愛人とともに国外逃亡してました。
ミハイ1世の摂政を叔父ニコラエ王子を含めた三人が務めました。
しかし3年後にカロル王太子が帰国し、息子を退位させ自分が国王として即位しました。
1930年、カロル2世即位
まあ女性スキャンダルで国外に愛人と逃亡したという時点で分かると思いますが、
王太子時代は息子のミハイ王子が生まれて父親になったというのに、スポーツカーに熱中し、国王としての修養を積むことなんて一切せず、自動車で走り回ってた。
イギリス国王ジョージ5世の母アレクサンドラの葬儀でロンドンへ行ったきりルーマニアに戻ってこない。
愛人のエレナ・ルペスクと逃亡したのです。
(エレナはユダヤ人で、後にマグダと改名)
逃亡と言っても名門ホテルのスイートルームで豪奢な生活をしてました。
息子から王冠を奪ったカロル2世でしたが、政治にも口出しするようになりました。
ルーマニアに呼び戻された愛人のマグダもやりたい放題
父親にハンカチ工場を始めさせ、カロル2世の肖像がプリントされたハンカチを兵士たちに押し付けて、その代金を給料から棒引きして兵士たちが抗議したり、莫大なお金を賭けたポーカーパーティーをしたり、マグダの親戚の建築家が宮殿の増築工事を請け負ったがその工事の見積もり書がどう考えても金額が大きすぎる等
秘密警察を作ってファシストや共産党員を拷問して殺害する等のことも行った。
王自身の独裁政治の為にあらゆる権力を握ったカロル2世。
遂にはヒトラーに石油の供給を保証してやるから、ドイツ軍の近代兵器を頂戴、自分に対して歯向かう勢力を排除する協力をしてと訴えるようになったカロル2世。
あのヒトラーから
「私の目から見ると、彼はルーマニア唯一の独裁者だ」
と言われるまでになりました。
1939年
スターリンがベッサラビアとブゴヴィナに侵出。
ブルガリアにドブルジャを奪われ、
ハンガリーにトランシルヴァニアを奪われた。
王宮周辺では国王退位を求めるデモが繰り返される。
1940年 ミハイ1世再び即位
カロル2世は「退位」という言葉を使わず、19歳の息子に王位を譲るという宣言書を発表する。
その後、王宮から美術品、宝石類、ドル札をたんまりと乗せた特別列車に愛人マグダと共に乗って西ヨーロッパに亡命。
これらを元手にカロル2世とマグダは贅沢な暮らしをした。
父親がぐちゃぐちゃにしたルーマニアを治めなければならなくなった19歳のミハイ1世はどんな気分だったのだろうか。
ミハイ1世は父王を一生許さず、二度と会うことはありませんでした。
父王とは違いほとんどの権力を持つことはなかったミハイ1世
1947年12月
ミハイ1世 退位&亡命
一説によると、
ルーマニア国内では駐留していたソ連軍に対する市民運動が激化して逮捕者が多数出ていました。
駐留ソ連軍の司令官はミハイ1世に対して「退位して国外に出なければ逮捕者を殺す」と脅され、事前に用意されていた退位文書に署名させられました。
こうして4人の国王を生み出したルーマニア王国は幕を下ろしました。
1948年 アンヌ・アントワネット・ド・ブルボン=パルムとアテネで結婚
(1947年の当時王女だったエリザベス女王とエディンバラ公の結婚式で出会い、亡命後に結婚しました)
イベリア航空のパイロットとして亡命生活を送りながらも「退位は無効だ」とルーマニア国王の称号を名乗り続けました。
1989年 ルーマニア革命でルーマニア社会主義共和国崩壊
1992年 ミハイ1世はルーマニアに一時帰国することを許可される
1997年 50年ぶりに市民権が回復される
(自宅はスイスにあるのでスイスとルーマニアを行き来してます)
2001年 ルーマニア共和国政府から特別な地位と認められ、住居・生計・活動費すべてが国庫で保証されるようになりました
大統領や首相からは「陛下」と呼ばれ、国土はなくとも「国王」として存在し続けました。
2012年のエリザベス女王即位60周年を記念した昼食会に出席されたミハイ1世

中央にホストであるエリザベス女王が座り、女王に近い席に即位した年数が長い王様が座ります。
1940年に即位したミハイ1世が一番格上です。
だからエリザベス女王の右隣に座ってます。
二番目が1943年に即したブルガリア国王ですね。
日本は9番目です。
「日本は一番古い歴史がある皇室だから偉いー」「日本の天皇は世界でただ一人のエンペラーだから偉い」というのは
ネット右翼の妄言なので信じてはダメですよ(笑)
欧州の王室では現存しない王室であっても現存する王室と同じ扱いをされてるのです。
それを頭にいれなければダメ。
それでも一番格上なのはエリザベス女王だと私は思います。
イギリス連邦にある国々のトップですから国土が大きい。
2017年12月5日 ミハイ1世崩御
スイスにある自宅で激動の人生を終えました。
2017年12月26日 ブカレストの旧王宮前で国民葬が営まれ、国民は元より欧州の王族も弔問に訪れました。

この方がルーマニア王室の現家長であるマルガレータ・ドゥダ陛下

「ルーマニア王冠の守護者」称号及び陛下という敬称を用いられてます。
ルーマニア王室も元々は男系男子継承でしたが、
ミハイ1世には女のお子様しか恵まれなかったため、2007年12月にルーマニア王家基本家憲が改定され、
マルガレータはルーマニア王室初の女性ルーマニア王太子となられました。
マルガレータ陛下は夫との間にお子様がいらっしゃらないので、妹のエレナ王女の娘エリザベータ王女が次の後継者となられます。
あとこのチャールズ王太子の後ろに座ってるふくよかな女性は現ロマノフ家の家長である
マリヤ・ウラジーミロヴナ・ロマノヴァです

参考文献
『ヨーロッパ最後の王たち』 ピエール・ミケル著、田辺希久子訳 創元社刊 1997年出版
『ルーマニアを知るための60章』六鹿茂夫著 明石書店刊 2007年出版
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