お妃に選ばれた理由を一覧表にしてみた

秋篠信者とネット右翼が眞子丼と海の王子の結婚延期を

「身辺調査をしないからこうなったんだ!!」

と騒いでる。

海の王子もそのママも川島家と同レベルじゃんと何百回言っても分からんのだろう。

というわけで皇族のお相手はどうやって選んでるのかを見てみようぜ!

貞明皇后 九条節子
明治天皇の多くの子どもたちが夭折した為たった一人成人した親王であった明宮嘉仁親王。
体が弱く、子孫を残せるか不安だった。
伏見宮家
そこでお妃には体が頑丈な人でなければと選ばれたのが五摂家の一つ九条家の節子だった。
高円寺の農家で養育され、九条の黒姫さまと呼ばれていた節子姫が選ばれた。

香淳皇后 久邇宮良子女王
学習院幼稚園時代にお弁当を仲良く召し上がる迪宮と久邇宮良子女王を見て当時の幼稚園の野口主任は
「このお二方は将来ご縁組でもできそう」と思った。
明治45年7月30日に明治天皇崩御。母俔子妃と三人の女王さまはお悔やみの為に参内された。昭憲皇太后は白い花のつぼみのように愛らしい良子女王に目を止めた。側近に「あの姫は誰か?」と尋ねると「久邇宮の姫でございます」との返事。
久邇宮家については明治維新の時の事情からその後不遇だった。明治天皇が「久邇宮家は気の毒だ。何とかしてやりたい」といつも気に留めていた。昭憲皇太后は写真を一枚所望された。この話は久邇宮邦彦王と俔子妃に伝わり、良子さまの鶴の模様の振り袖姿の写真を昭憲皇太后に届けられた。それ以降良宮さまは昭憲皇太后のお話相手をされるようになった。良子さまは昭憲皇太后を祖母のように慕われていた。
大正6年10月に貞明皇后が学習院女子部を訪れる。
良子さま14歳。当時裕仁皇太子の最有力お妃候補は良子さまと五摂家の一条家令嬢朝子の二人だった。
おっとりと気品あふれる容姿に貞明皇后は惹かれた。
宮内省でも学習院女子部から成績表を取り寄せたり、身体検査を数回行い皇太子妃として相応しいかチェックした。
こうして皇太子妃に良子さまに決まられた。
(宮中某重大事件で大変でしたが)

秩父宮妃勢津子さま 松平節子
会津藩最後の藩主松平容保の六男で外交官の松平恒雄氏長女。
貞明皇后が皇太子妃時代に外国のマナーを学ぶためにロンドンから帰国していた勢津子さんの母松平信子さんに外国の作法と外国事情を教えてもらっていた。その後恒雄氏の中国赴任に同行されて日本を離れた信子さんでしたが、大正に時代が変わるとまた帰国されました。貞明皇后は信子さんを正式に御用掛として外国との交際の時の先生とされてました。
裕仁皇太子のお妃選びは完全に皇后の意思で決まったわけではありません。
しかし次男である淳宮のお妃はご自分で決めたいと考えられました。
学習院女子部にも何度も参観に行かれた。
そこで性格も良く成績もよかった松平節子さんを選んだのは貞明皇后だった。
アメリカに渡っていた松平家に樺山愛輔海軍中将が貞明皇后からの使者として派遣された。
松平ご夫妻は直宮である淳宮の妃に娘がなることを断った。
松平恒雄氏が爵位を持たない平民であること、朝敵であった会津藩の人間だったことを理由に挙げた。
節子さん自身も「私に直宮妃など無理です」と強く拒否された。
それでも貞明皇后は「淳宮の妃は松平節子以外にはいない」という熱意に押されて話を受け入れる。
当時は華族でなければ皇族のお妃にはなれなかったので一旦叔父松平保男子爵の養女となられました。
朝敵と蔑まれていた会津の人々は松平容保の孫娘が天皇の弟に嫁ぐということに大変感動しました。
貞明皇后の名前節子と同じであることから勢津子と改名されました。

高松宮妃喜久子さま 徳川喜久子
最後の将軍徳川慶喜公の孫である喜久子さま。
德川慶久公爵と有栖川宮威仁親王次女實枝子女王の間に産まれました。
大正天皇からの勅命により後嗣のいない有栖川宮家の祭祀を引き継ぐことになった当時9歳の光宮宣仁親王のお妃として有栖川宮家の血を引く当時3歳の喜久子さまが早い段階からお妃になることが考えられていた。
通常ならば成人するか結婚してから宮号を賜るが、9歳で有栖川宮の旧称であった高松宮という宮号を得ました。
昭和4年にご婚約が決まりました。


三笠宮妃百合子さま 高木百合子
河内丹南藩主家高木正得子爵と邦子夫妻の次女として生まれた百合子さま。
高木家は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、徳川時代には幕府の重職である大番頭に任ぜられる家柄です。
母上邦子さんは藤原定家を祖とした御子左家一門の入江家出身です。
女子学習院時代から優秀で、昭和16年の女子学習院本科の卒業式では優等生として皇后陛下から賜品を受けられたほどです。
(皇后陛下とは未来の義姉となられる良子さまです)
容姿端麗、聡明な性格、優秀な学習成績。母方の入江家は皇室とのつながりも古かった。
そういった理由から選ばれました。


東久邇成子さん 照宮成子内親王
明治天皇の成人した四人の皇女を見れば変わるように戦後になるまで皇女の嫁ぎ先=皇族だった。
宮家の跡取りで照宮さまと結婚してもおかしくない年齢という理由で選ばれたのが東久邇宮家盛厚王だった。
皇族と言っても明治以降伏見宮家から分裂して出来た宮家と天皇の娘である照宮さまとではほとんど接点はなかった。
見合いさえせず結婚。
結婚しても10代の女の子からすればほとんど接点のない20代後半の男性に恋愛感情なんてすぐに生まれなかった。
2年ぐらいしてやっと愛情がわいてきた。

鷹司和子さん 孝宮和子内親王
最初は従弟の大谷光紹さんとの婚約が進んでましたが、破談となりました。
ただ戦後とは言え皇女の嫁ぎ先としてやや格が低く、また血が近かったことが原因。
五摂家の一つ鷹司家の鷹司平通氏と結婚されました。


池田厚子さん 順宮厚子内親王
岡山藩藩主家池田家の池田隆政氏とご結婚。
お見合いも済んでそろそろ婚約内定発表しようかなと思ってたら突然節子皇太后が崩御。
年齢と準備を考えれば喪が明けるまで待てないというわけで皇室会議無しで結婚が決定した。
と言っても世が世なら岡山城のお殿様なんですけどね。
結婚後は池田動物園のチケット売りや売店の売り子をされました。

美智子皇后 正田美智子
軽井沢のテニスコートで出会った。
(この当時の軽井沢の上流階級のテニスクラブは少人数で明仁皇太子と出会わない筈がなかった。つまり正田家側は狙ってたのだ)
北白川肇子さんがなるだろうと思ってたのに、
小泉、黒木らが水面下で動き、正田美智子が皇太子妃になることが決まった。
皇室会議の3日前まで良子皇后や三人の宮妃さま方、旧皇族、松平信子常磐会会長は知らなかった。
最終的には「東宮ちゃんがいいと言ってるんだから」という昭和天皇のお言葉で決まった。

常陸宮妃華子さま 津軽華子
旧華族出身で常磐会会員で学習院女子短期大学をご卒業された。
世が世なら弘前城のお姫さまだった華子さま。
ご両親思いの義宮さまは昭和天皇と良子さまが気に入る相手ということで華子さまを選ばれた。
伯父さまの徳川義寛さんは昭和天皇の侍従長、叔母さまの北白川祥子さんはは女官長及び皇太后女官長になられた方です。

島津貴子さん 清宮貴子内親王
良子さまの従弟で、祖父は薩摩藩最後の藩主、父は佐土原藩主家第14代当主。
良子さまもご結婚に大変喜ばれた。

寛仁親王妃信子さま 麻生信子
母方は明治維新を成し遂げた偉人の子孫である大久保利通、三島通庸の血を継ぎ、吉田茂が祖父。
父方は九州財界の重鎮で富豪の政治家
『暁の柊』に高円宮さまの松濤幼稚園の入園試験の際に信子さまがお兄様にからかわれて泣いてるという記述がある通り、小さい頃から三笠宮家と縁があった。
トモさんには16歳でプロポーズされた。

高円宮妃久子さま 鳥取久子
カナダ大使館のレセプションで出会われた高円宮ご夫妻。
久子さまはケンブリッジ大学を卒業された語学力を活かして、翻訳や通訳をされていました。
その後三笠宮さまが総裁を務められた国際アジア北アフリカ人文科学会議で三笠宮さまの秘書兼通訳を久子さまがされました。
その後お付き合いされるようになりました。
三笠宮さまは仕事の関係で宮内庁書陵部にある三笠宮研究室を訪れた久子さまに「うちの憲仁をどう思う?」と尋ねられました。
「私の家は皇族と結婚できるような家ではありません」と答えられたところ、
三笠宮さまは「それはない」と話され、用意していた久子さまの経歴や家系図のコピーを示されました。
ご自分で家系図を調べられた三笠宮さまは久子さまが皇室縁がある女性ということをご存知でした。
久子さまの母方の祖父友田二郎は外交官で公式儀礼に詳しく、宮内庁式部官を務めたお方です。
三笠宮邸にも正月にモーニング姿で挨拶にいらっしゃいました。
一番の決め手は貞明皇后と久子さまの曾祖母が従姉妹同士ということです。

秋篠宮妃紀子さま 川島紀子
礼宮が勝手に連れてきた
本来なら側室でもあり得ない女性でしたが、礼宮が「ダメだというなら皇族辞める」と言い出した。
三回の子宮のメンテナンスで父親が怒鳴り込んで新天皇皇后が渋々OKを出した。
(2回じゃなくて3回だそうです)
費用をケチって3DKの団地で納采の儀と告期の儀を行った前代未聞の人

皇太子妃雅子さま 小和田雅子
昭和の時代から皇太子妃候補として有力視され続けた。
当時の東宮大夫だった安嶋彌氏は各方面にお妃候補の紹介を依頼。
そのうちの一人だった元外交官中川融氏はソ連大使館時代部下だった小和田恒さんの長女小和田雅子さんを推薦した。
昭和61年スペインエレナ王女歓迎式典で出会われたお二人。
小和田恒さんは昭和天皇訪米時随行員をされており、また高円宮妃久子さまと小和田優美子さんは知り合いだった。
お妃選びの関係者を唸らせた非の打ち所のない家系でしたが、唯一江頭豊さんがチッソの元会長だったことが問題となった。
(江頭さんは公害が問題になって経営状態が悪くなったチッソの経営立て直しの為に日本興業銀行から派遣された銀行マン。公害問題とは一切関係ない)


雅子さまは皇太子妃ですから当然ですが、

他の宮妃の方々もすごいですよね。

久子さまの時なんて三笠宮さまがご自分で調べられたのです。

こうやって見るとキーコさまが如何にイレギュラーだったかが分かります。

いいじゃん、海の王子を認めてやれば。

自分だって同じか、もっとひどかったんだからさ。
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No title

上原善広氏の取材で館林が特集されています。
「路地を歩く」というタイトルで書籍化されています。
彼の出自のこともあって好意的に書いていますが。

http://blog.livedoor.jp/royalfamily_picture/archives/1047288071.html

どっちが良かったのかと…

北白川さんのはずだったのに…と見聞きするたびに考えてしまいます。
そうなっていれば、今、皇室について感じている違和感や負のイメージはなかったかもしれない。
でもその昭和の皇太子ご夫妻にお生まれになったお子さまは、徳仁さまとは別人になるんですよね…
そんな仮定の比較に意味ないのは分かってますが、つい考えてしまいます。
ま、今のこの現実のようにイヤな御代でなければ、例え皇太子が徳仁さまと違って多少ぼんくらだったとしても、皇太子妃が雅子さまほど素晴らしくなかったとしても、お子さまの出来が愛子さまみたいに良くなくても、何とも思わなかったかもしれませんね。

とても勉強になりました。ありがとうございます。
こうして見ると、配偶者に相応しい方を真剣に選んできてるんだなあと。

昭和天皇と良子様のエピソードも暖かくて好きです。
紀子さんは選ばれた方ではないし、やっぱり喪中の婚約は許せないです。
プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@excite.co.jp

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