FC2ブログ

鎌倉御用邸物語 皇女たちの鎌倉御用邸

普段「ヘカちゃん鎌倉市民だから!」と言ってるんだからたまには鎌倉市民にしか書けない記事を書きたいな―と思ってました。

鎌倉市民でも知ってる奴の方が珍しい鎌倉御用邸についての記事を書こうと思って図書館で調べてたらある本を発見した

『鎌倉市史 近代史料編第二』

これは鎌倉市が「鎌倉市の歴史について書かれた本を作ろうぜ!」と昭和56年から作り始め平成2年に出版された本です。

この本を編さんした「鎌倉市市史編さん委員会」の代表である委員長はなんと児玉幸多学習院大学名誉教授!

そうです、皇太子殿下の恩師で敬宮さまの鳴弦の儀の読書役を務められたお方です。

もう一冊参考にした本が『鎌倉別荘物語』という本です。

これは1993年に発売された高校教師の島本千也氏が書いた本です。

今の皇室には天皇家(内廷皇族)の別荘が3つあります。

葉山、那須、須崎の3つです。

戦前は多い時はなんと全国に24か所も御用邸があったのだ。

このうち鎌倉御用邸は明治32年4月11日に地鎮祭が行われ、9月に完成してます。

「え、完成早くない!?明治なのに!?」と驚きましたが、

麻布第二御用地の建物を移築したからこんなに早いのです。

敷地1万八千坪という広さでした。

鎌倉御用邸跡地には現在御成小学校、市役所、中央図書館が建っています。

(御成小学校は御用邸があったことにちなんで「御成」という校名です)

御成小学校の正門は鎌倉御用邸で使われていたものをそのまま使ってます。

大正12年の関東大震災で壊れた後は、敷地の一部の千坪ほどが柳原愛子に下賜され、残りは昭和6年に鎌倉町に払い下げられ、昭和8年に御成小学校が開校されました。

他にも華頂宮、山階宮、伏見宮の3つの宮家が鎌倉に別邸を持っていました。

残念ながら関東大震災で3つとも倒壊しました。

鎌倉御用邸は明治天皇の第八皇女富美宮允子内親王と第九皇女泰宮聡子内親王の避寒の為に作られました。

(鎌倉って別に東京よりも温かくないと思うけどね)

富美宮允子内親王は朝香宮鳩彦王と結婚され、泰宮聡子内親王は東久邇宮稔彦王と結婚されてます。

明治は皇女の為に別荘を建てたんですね。

ただこのお二人だけではなく他の内廷皇族も使用してます。

明治33年1月にお成りになった際の当時の新聞が『鎌倉市史』に書いてあります。

両宮の御成 富美宮允子内親王・泰宮聡子内親王両殿下は、本日八日午前九時二十五分新橋発汽車にて県下鎌倉御用邸へ成らせられ、当分同所に御滞在あらせらるべき旨御治定相成りたり
(『横浜貿易新聞』明治三十三年一月五日)

両内親王還御 允子内親王・聡子内親王両殿下は県下鎌倉御用邸に御滞留の処、本日午後一時三十六分鎌倉発、同三時三十分新橋発汽車にて還御あらせらるべき旨御治定相成りたり
(『横浜貿易新聞』明治三十三年四月二十六日)


寒さを避けるための別邸なので本当に暖かくなるまで3か月も滞在されてます。

やっぱりのんびりしてるなーとしみじみ思う。

その割には嘉仁皇太子が大船駅を乗り換えで使う際には分単位でスケジュールが組まれてたりするんですよ。
(『鎌倉市史』に書いてある。汽車ってここまで時間通りに動くの?と思う)

ちなみに両内親王の兄である嘉仁皇太子(後の大正天皇)も鎌倉御用邸を使ってます。

東宮殿下還啓
皇太子殿下は御予定の如く再昨日午後三時三十分鎌倉御用邸御出発、高辻侍従長、村木武官長等を随へさせられ、同五時二十八分新橋着汽車にて還啓あらせられたり
(『横浜貿易新聞』明治三十四年七月二日)


明治の皇女さま方は中々鎌倉御用邸を楽しまれたようです。

両内親王殿下鰕漁をご覧ぜらる
青葉茂れる鎌倉山の御用邸に御避暑中なる常宮・周宮両内親王殿下の御動静に就ては洩れ承る度毎に報じ置きたりしが、此程に至り鎌倉町漁業組合にては両殿下の御為めに鰕漁を御覧に入れんものと、理事安西三之助より町役場を経て伺ひ置きたる処いよ/\御許しとなり、昨十二日朝水清よき由井ヶ浜の沖合に於て行はせられたり、当日殿下には午前六時御出門、絹縮の御服に海老茶の袴を召され、御養育主任佐々木伯以下を随へさせられ、順路七時六分由井ヶ浜に御着、艤装せる漁船に移らせられ海上に成らせ玉ひ、漁夫の勢よき掛声もて網曳きするをいと御機嫌よく御覧ぜられ、百六七十の大鰕を漁せられたるを御満足に思召され一時間半余にて御還邸相成りたるが、両殿下には特に町長・組合理事等へ金十五円の御恩賜あり、尚ほ漁夫一同へは三千疋を賜はりしが、御還邸後理事を召され種々御下問の上御菓子を賜はりたり
(『貿易新報』明治三十九年八月十三日)


エビ漁を見て楽しまれて何よりです。

江の島では今も伊勢海老が捕れます。

常宮は第六皇女常宮昌子内親王です。明治天皇の子どもは夭折した子どもが非常に多い。その為成人した四人の皇女たちの一番上の常宮が実質的な長女ですね。常宮は竹田宮恒久王の妃となられました。つまり皇族芸人の曾祖母です。

そのすぐ下の妹が第七皇女周宮房子内親王です。周宮は北白川宮成久王の妃となられました。

四人の内親王ってところがOTMAみたいでOTMA萌のヘカテーの心をくすぐります。

あとなぜか『貿易新報』は由比ガ浜を「由井ヶ浜」と表記してるので打ちにくい。

またこんないい話もあります。

鎌倉御用邸に高齢者召さる
八十歳以上の老人五十一名
目下鎌倉御用邸にお在します富美宮・泰宮両内親王殿下には、曩きに本県師範学校・鎌倉尋常高等小学校には校旗、私立鎌倉女学校には御下賜金ありしを以て同地人一般に感泣する処なるが、本月十四日は又鎌倉町在住八十歳以上の高齢者を同御用邸に召さるゝ旨仰せ出されしを以て、同日午後一時頃より難有仰せを忝み続々と御用邸に伺ひしが、当日は総員八十八名の内病気其他の為め出頭し能はざる者を除き、男爵沖守固母堂を始め五十一名丈け伺候し、先づ庭内に設けたる控所に休息、午後二時に及び犬山鎌倉町長の案内にて御内庭に配置の椅子に着するや、両殿下には御機嫌麗はしく野村御用掛長以下を伴はれて御台臨御会釈在らせられたる後ち、野村子爵より殿下の高齢者に対するお思召しのある処に付き挨拶ありし時は、何れも感激の余り顔さへ得上げざりしといふ、夫より一同へ菓子及び酒肴料を賜なりしといふ
(『横浜貿易新報』明治四十一年四月十七日)


明治42年には皇后(後の昭憲皇太后)も鎌倉御用邸に行啓されてます。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

歴史もの大好き

鎌倉市史、有難うございます。

>その割には嘉仁皇太子が大船駅を乗り換えで使う際には分単位でスケジュールが組まれてたりするんですよ。
(『鎌倉市史』に書いてある。汽車ってここまで時間通りに動くの?と思う)

たぶん動いたでしょう、というか動かしたでしょう、と思います。

エリザベス女王ご夫妻が1975年来日された時、女王陛下は
「日本の新幹線は時計より正確と聞いています」とおっしゃった。
京都から東京まで乗車されたのですが、あいにくの大雨で徐行区間があり、ご夫妻の荷物の積み込みに遅れもあり、名古屋駅で3分の遅れ、とうてい定刻には到着しないと、東京の国鉄関係者は思っていたそうです。
運転手はATCでブレーキがかかる210キロぎりぎり手前の209キロで運転を維持、しかも名峰富士をごらんいただくため、そのあたりでは速度を下げ、三島で1分遅れ、みごとに東京に定刻着。

職人技の運転技術も日本の誇りですよね。

外国ではいつ来るかわからない列車もありましたし、アナウンスもなく発車してしまうものもあり、大あわてしたこともあります。
それはそれでおもしろいけど。

女王陛下の期待を裏切らなかったこのエピソードは忘れられないものです。
プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@yahoo.co.jp

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR