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『徳川おてんば姫』 序 昔の女子学習院はすごいぜ編 

7月1日に亡くなれた井手久美子さんの著書『徳川おてんば姫』を拝読しました。

井手久美子さんは徳川慶喜公の孫で高松宮妃喜久子さまの妹君に当たります。

唯一の著書であるこの『徳川おてんば姫』が出版されたのは先月6月

つまり95歳で作家デビューを果たされたのだ!

やっぱり高松宮妃喜久子さまの妹君は違うぜ!

というか大正生まれってやっぱり強いなー

読んでみたら滅茶苦茶面白いのでブログでも取り上げたいと思います!

もう本当に絶対読んでみて!貴重な写真も沢山掲載されていて絶対読んで欲しい!

紹介したいところが一杯あるのでいくつか分けて記事にします

大正11年(1921年)9月22日生まれましたが、
22日と言う日は祖父慶喜公と父慶久氏の月命日だったことから「日が良くない」という理由で23日生まれと届けられました。
(父慶久氏は大正11年1月22日に急死されています)
生れ育ったのは第六天の武家屋敷
現在の東京都文京区春日二丁目で、現在では国際仏教学大学院大学の敷地になっております。
久美子さんたちが生活されていたころは建物だけで1300坪、敷地の広さは昭和6年で3400坪という広大な敷地でした。
屋敷には常に50人の使用人がおり、家令が万事仕切っていました。

はい、ここ大事だから覚えてね!
建物だけで1300坪、敷地面積3400坪というお屋敷で高松宮妃喜久子さまは生活されていたのです!


お父上徳川慶久氏は徳川慶喜の子、そしてお母上實枝子氏は有栖川宮家ご出身という父方母方どちらから見てもプリンセスというお方なのです。

長姉である喜久子さまとは年が離れていましたが、
1歳違いの姉喜佐子さん(後に越後高田藩主家榊原子爵榊原政春氏と結婚されました。エッセイも書かれてるのでぜひ読んでみてね)とは非常に仲が良く木登りを鬼ごっこをしたりとかなりお転婆な子ども時代を過ごされました。

女子学習院の隣に会った幼稚園を経て、女子学習院に進学されました。
(当時の華族は皆学習院に通いました)

戦前の女子学習院ですから入学試験のない華族が3分の2、そして残りの3分の1が入学試験を受験した一般の生徒でした。
一般の生徒と言っても平民のお家の子ではなく、川崎銀行の娘さんの川崎〇〇子さんといった華族ではないが財閥軍隊などの名家の娘さんばかりです。
(ちなみに山屋他人の娘の初さんは女子学習院に通われていたニャー)

ザ・戦前の学習院という感じのエピソードがあったので引用します。

学年を経て、クラスメイトの家柄がお互いにわかってくると、お公家さんとお武家さんとでは、どことなく違いがあるように感じられました。私が仲良くなるのはお武家の方が多かったような気がします。その頃の私たちは、漠然とですが、お公家さんよりもお武家さんの方が偉いと思っているようなところがあったのかもしれません。大政奉還からまだ七十年ほどしか経っていない頃のことですから、武家時代の名残がまだまだあったのでしょう。
でも成績が良ければ、武家も公家も関係ありませんでした。学習院がモットーとする「よき友と切磋琢磨すること」、それが生徒たちの身に付いていたのです。私の一年か二年上に、とても成績の良い聡明な方がいて、勉強が苦手な私にとっては本当に憧れの的でした。女子学習院の授業内容は易しいものではなく、勉強をし直すために病気で休んだことにしてあえて落第する人もいましたが、私はその上級生を目標にどうにか頑張って進級することができました。
武家だ公家だと言っているような学校ですから、生徒の先祖が歴史上の人物だったり、明治維新の当事者の娘や孫であることも珍しくはありませんでした。そして、私が徳川家を誇りに思っているのと同じように、皆わざわざ口には出しませんが、それぞれ自分の家に自信を持っているのは当然のことでした。そんなわけで、特に歴史の授業などは「やりにくくて仕方がない」と先生たちが困っていらっしゃったようです。
とある先生の授業では、黒板に家康公のことを「狸親父」と書き、秀吉のほうが人気があってそれに比べて家康は人気がなかったと話したそうです。それを聞いた私よりも少し年上の従姉妹は、ショックを受けて授業中に泣き出してしまったのでした。第六天でも家康公は権現様と呼ばれ、天皇陛下の次に偉い方と言われていたほどですから、従姉妹は傷ついたのでしょう。このことはその後も「家康のことで泣いた徳川」という逸話としてたびたび語られ、私たち姉妹もその従姉妹ということで話題になっていたようです。


よく言われている学習院のエピソードって喜久子さま姉妹の従姉妹の方だったんですね(笑)

さて、当時の学習院女子というのは一クラス30名、一学年1クラスという少人数教育で、しかも華族は世界が狭いのでクラスメイト同士もどっかしらで血が繋がっていたりしました。

あと学習院らしいなーというエピソードがこちら

女子学習院には、「通信簿」というものがありました。成績が書かれている通信簿ではなく、家庭から欠席理由を書いた欠席届でした。徳川の場合でいうと家康公の命日など、先祖の法事や祭祀、各家の事情による欠席も多く、それらが認められていました。

敬宮さまが体調を崩されて休まれたら叩くマスコミと下郎下女どもは学習院という学校の特質を勉強しておくように!

女子学習院の学科には外国語も含まれており、「欧語会」という催し物では英語やフランス語で朗読、劇、暗唱が発表されました。

はーい、ここも注目!
女子学習院の生徒さんたちは外国語を学ばれていました
「ミテコさまは英語が堪能だったから、英語が話せない皇族や旧華族から虐められた」という説がまた否定されましたね。

徳川慶喜家のお姫様だった久美子さんは結婚されるまで買い物という物をしたことがありません。
じゃあ欲しいものはどうしてのかと申しますと・・・

家には松坂屋の外商部の方がいつも来ていたため、自分たちで買い物をすることはありませんでした。松坂屋は江戸時代から徳川家の呉服御用達でした。お付きの者たちからは「お金を持って買い物をするなど、お上のあそばすことではございません」と言われていましたので、結婚して家を出るまでお店で買い物をすることはありませんでした。
雑誌なども書店で買い求めるのではなく、書店から送られてくるものを読んでいました。恋愛ものは御法度で「少年倶楽部」や「海軍クラブ」など男の子が好みそうなものばかりでした。おそらく表の誰かが決めていたのだと思いますが、どういう基準で選ばれていたのか今もわかりません。
学校の購買部を利用するときも、ノートや鉛筆など必要なものを伝票に書くだけでした。それでも私と姉は、土曜日の昼食のパン代として月初めに表から五十銭が入った封筒をもらっていました。普段買い食いなどできなかったものですから、二個十銭のジャムパンやクリームパン、一個十五銭の三食パンを買うのが楽しみでした。


「表」とは使用人の中の男性のことを指します。
女性は「裏」と呼ばれていました。
恋愛ものが書いてあったらダメだから仕方ないとはいえなんで少年倶楽部と海軍クラブを選んだのだろうか?

皇室では外廷皇族は戦前に比べ気軽な身分になりましたが、
内廷皇族はまだまだご自分で気軽にお店で買い物をするということはできません。
それでも敬宮さまが学校の購買部やオール学習院の会場の目白キャンパスで買い物をされるようになっただけ自由になったのかもしれません。

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ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
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メールアドレス retsugaiha@yahoo.co.jp

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