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『徳川おてんば姫』 皇室に嫁いだら実家と疎遠でなければならないなんて言ってる奴はバカだな編 

有栖川宮家の祭祀と財産を継ぐ形で創設された高松宮家

大正天皇の第三皇子光宮宣仁親王が高松宮の宮号を与えられ、宮家の当主となりました。

有栖川宮威仁親王を兄と慕った大正天皇が有栖川宮家が途絶えることを惜しんだことがきっかけでした。

有栖川宮威仁親王の子のうちたった一人生き残った實枝子女王は喜久子さま姉妹の母上。

貞明皇后の御内意によりこの縁談が決まったのは喜久子さまが2歳の時で、喜久子さまが自分の結婚相手が誰かを知ったのは10歳の頃でした。

直接知らされたのではなく、「高松宮さまと結婚されるのですね」と誰かから聞かされたことで知ったのです。

昭和天皇の弟である高松宮さまと徳川慶喜の孫娘の結婚という事で当時は公武合体と話題になりました。

昭和5年2月4日を第六天の徳川家では「御當日(ごとうじつ)」と呼びました。

喜久子さまは御垂髪に十二単の姿で馬車に乗って嫁がれていきました。

「書生さんは制服が一番」と女子学習院の制服のセーラー服をお召しになった久美子さんはお姉さまのお姿を見てこのように思われました。


いつもと別段変わらぬ装いの私たちの前に現れた、十二単衣と長袴に身を包んだ姉の姿を拝見し、私はきれいだな美しいなというよりも先に、重そうで大変そうだなと思いました。


うん、絶対に重かったと思う
というのも戦前の日本は明治時代に養蚕を国策として重視してた影響で絹織物に関しては世界トップクラスだった。
当たり前だが絹地だってしっかりと織られたものです。
そこに和刺繍をきっちりと施す。そりゃ重い。
ヘーセーの即位の大礼に十二単に御垂髪で参列された喜久子さまは後に
「今の十二単はペラペラで軽くて年寄りには楽ね」と仰った。

実は第六天町からはこの2年前の昭和3年9月28日に皇室に嫁がれた方がいらっしゃいます。

徳川慶喜家の屋敷から道一本挟んだお隣に旧会津藩主家松平保男子爵邸がありました。
秩父宮妃になられた勢津子さまはお父上が爵位が無かった為に叔父である松平保男子爵の養女になられました。
勢津子さまも喜久子さまと同じく、御垂髪に十二単で第六天町から馬車に乗って嫁がれたのです。

(と言っても遊びに行ったりしたことは全くありません。徳川慶喜家のお姫様方は学校以外に外出されることはお墓参り等の特別な時ぐらいです)

昭和13年には喜久子さまの弟で久美子さんの兄である慶光氏がお隣の松平保男子爵の五女和子さんと結婚されています。

ものすごく華族と言うのは世界が狭いのだ。

結婚後も高松宮家と徳川慶喜家は交流があり、

葉山の徳川慶喜家の別邸は旧有栖川宮家別邸の一部を拝借していました。

つまり、高松宮家別邸の一部を徳川慶喜家が借りてたんですね。
二つの別邸は庭続きになっていたので、お菓子や羊羹を喜久子さまから頂くことも勿論ありました。


ちなみに久美子さんが最初の結婚で授かった男の子が早産した際には高松宮ご夫妻が非常にお気遣いされ、
喜久子さまがお見舞いに行かれたり、高松宮ご夫妻が食事に誘ったりと非常に暖かい交流がありました。
また戦中戦後最初のご主人が出兵され心細い日々を過ごす久美子さんを高松宮邸に食事に誘うことも毎週のようにありました。
戦死された久美子さんのご主人のご葬儀には高松宮ご夫妻が参列されています。
さらには久美子さんの再婚相手を探そうとまでされています。

えー、このことは高松宮日記にもばっちり記載されておりますので、嘘だと思うならば調べてくださいまし。
高松宮さまの日記を見ると義妹に優しいお方であることが非常によく分かります。

これでも「皇室に入ったら実家と疎遠にならなきゃダメ」なんて変なルール持ち出すんですか~?

昭和21年、高松宮ご夫妻はそれまでの高輪御殿(現高輪皇族邸)から道路一本挟んだ表の責任者が住んでいた官舎に引っ越されます。
そして両殿下の住まいが縮小されたのに伴い、宮邸の職員が住む大きめの官舎が5件空きました。
そのうちの一つに久美子さま家族が住まわれたのです。
そしてその隣の官舎には住まいを失った徳川慶光一家も住んでいました。


なんで一般人が住んでるの!?と思われるかもしれませんが、

元軍医の医師井手次郎さんと再婚された久美子さんは、昭和24年にご主人がクリニックを開業されたことで横浜市南区の下町に引っ越されました。
そこで息子さんも生まれたのですが、戦後ですから進駐軍のキャンプ地もあり、あちこちにパンパンがいました。
生まれたばかりの息子さんを抱いて買い物に行くと、皆雨戸を半分開けている為子どもには見せたくないものまで見えてしまう。
しかも強盗に入られたりと、長くは生活出来ません。
そこで姉上喜久子さまが高輪の高松宮邸の敷地内にある官舎への引っ越しを勧めて下さったのです。
官舎へ移られてからはご主人は朝から夕方までは広尾の日本赤十字社中央病院で、夕方5時から午後10時までは官舎で診療をしていました。
宮邸の角にあったから外部の患者さんを診ることが出来たんですね。
高輪警察署に拘留されている被疑者の診察も受持っていたとのことですから驚きです。

その後生まれた子どもたちにとっては非常に楽しい場所で、
高い建物がないので遠くまで凧を揚げたり、庭師さんから焼き芋や焼き栗をおやつにもらったり、監視員のいない宮邸内の25メートルのプールに夏は思いっきり遊んだりと楽しく過ごしました。
(この本に写真が載ってるのですが、常陸宮妃華子さま、三笠宮家の百合子さまとお子様方、久美子さんとお子さん方がプールで写真を撮られています。水着姿の華子さまが滅茶苦茶かわいいです)

高松宮ご夫妻はお子様に恵まれませんでしたが、ご夫妻共に非常に子供好きで、甥っ子達を大変可愛がられていました。

こんな愉快なエピソードがあるので引用します

光輪閣で宴が催されるある日、裏門から入った息子たちが「僕たち、ここに入っちゃ駄目だよ」と大勢の警備の警官に止められたそうです。
「僕たちの母は妃殿下の妹です」
海水パンツ一枚で上は裸、浮き袋にゴムサンダル姿の息子たちがそう伝えると警備の皆がどうしたものかと右往左往。“警官嫌い”の殿下は、この話を聞いて大変愉快そうに喜んでおられました。殿下は、皇族に過剰な警備は不要というお考えでいらしたのです。宮邸には普段は警備の方はいらっしゃいませんでした。



昭和47年に高松宮ご夫妻が、新宮邸に引っ越され、追って官舎が取り壊されて敷地は払い下げられ高輪パークマンションになりました。
住居専門のマンションでしたが、地域住民の為に残って欲しいという要望でマンションの1階にクリニックを開き、最上階に住いを購入されました。

官舎には20年以上住まわれていたということになりますね。

写真が掲載されていますが、官舎を見ると粗末ではありませんが、質素です。

とても第六天の広大な敷地に住んでいた最後の将軍の孫が住む家には見えません。

今だったら絶対にマスコミがうるさく騒ぐだろうなー

皆さまに質問いたしますが、

こんなに親戚の子供たちに対して優しいお二人がミテコさまを虐めると思いますか?

本当に「平民出身だから気にくわない」というだけの理由で皇太子妃を虐める人ならこんなに親戚に対して愛情を持ったりしないぞ

雅子さまは平民出身だが(と言っても皇室とご縁がある凄い家柄ですけどね)、喜久子さまに嫌われるどころかものすごく可愛がられたし、敬宮さまも非常に誕生を喜ばれた。

高松宮さまが正田英三郎が挨拶したら無視したと河原あたりが書いたが、
娘が皇太子妃になってから、閨閥作りは精力的にするわ、懇意のマスコミに喜久子さまを始めとする女性皇族の悪口を書かせたり、皇太子妃の実家ということでデカい面するようになったり、娘は娘で自分が中心じゃないと気が済まないというんじゃ嫌われるわ!
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正田美智子の婚約記者会見ドレスは絹ではなかった!

ポリエステルだった。

当時の宮内庁は正絹の服にするように、と言ったのに、
それを無視してポリエステルの服にした。

そんなワガママ美智子がイジメられるわけない!

イジメられたのは良子皇后ですよ。



敬宮様

敬宮様は、愛子様とお呼びするよりやはり敬宮様とお呼びした方が良いように思います。
マコさんカコさん悠仁くんは、みな秋篠宮家の人だけれど、皇女であらせられる敬宮様は、親戚縁者の子供たちとは違って直系の証である称号、敬宮がある唯一のお子様です。
秋篠宮がいるかぎり悠仁くんには、ずっと個人的称号はないのよ。
天皇家の敬宮様とは、お生まれもお育ちも環境も違うの。
言うなれば、帝王家とその臣下家ぐらい違うの。
いくら父親を皇嗣と呼ぼうがなんて呼ぼうが、直系ではない傍流家なのよ。


プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@yahoo.co.jp

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