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『徳川おてんば姫』 喜久子さまの妹君が歩まれた激動の昭和

徳川久美子さんが女子学習院を卒業されたのは昭和16年

当時の女子学習院では卒業と同時に結婚する方がほとんどでした。
(中にはお茶の字水女子大などに入学する方もいた)

縁談は全て周りが決めるものでした。
このように久美子さんは仰っています。

どういうところにお嫁に行きたいなんてものは本人にはございませんで、すべて周りが決めるものでした。大抵、十五、十六歳になると、親や親戚がご縁のあるところでお相手を探します。さらにその頃は、まだ維新の名残りで敵味方の考えが強く、敵側との婚姻はあるはずもなく、特にうちの老女たちは「薩長なんて」と目の敵にしていました。ですから、兄・慶光のお嫁さんは松平容保公の七男・松平保男様の四女である和子様、姉は越後高田藩の藩主榊原家に嫁いだのです。慶喜公を応援していた幕臣や佐幕の家としか姻戚関係になれないような時代でした。

まあ、現代も皇室では「親や親戚がご縁のあるところでお相手を探す」というのは常識なんですけどね。

昭和天皇の皇子皇女(継宮を除く)、三笠宮家のお子様、徳仁皇太子殿下、高円宮家のお子様方は皆さまご自分で勝手に連れてきた人と結婚なんてしてません。
真っ当な皇族の方々は周囲が「この方ならば」と推薦された人を選ばれたのです。
「大学行って自分で選んで来い」という方がありえない(笑)

久美子さんのご両親は既にお亡くなりになっていたので親代わりとなっていたのは高松宮ご夫妻でした。

昭和16年7月18日、久美子さんのお相手が決まりました。

松平康愛(やすよし)氏
(めっちゃイケメンです)

康愛氏は旧福井藩主家の越前松平家第19代当主松平 康昌氏の長男です。
康愛氏の母綾子さんは徳川宗家16代目当主徳川家達の次女です。


第16代当主松平慶永(春嶽)が徳川慶喜に非常に好意的であったことから、越前松平家と徳川家は非常に縁が深く、松平康昌夫妻の仲人を徳川慶久夫妻が務めたほどです。
そういういった縁もあり、綾子さんが「ぜひ久美子さまを」と強く望まれたのです。

康愛氏は、成城高校卒業後、東京帝国大学農学部に進まれました。卒業後は日本郵船に勤められていた6歳年上の男性です。学生時代はアイスホッケーを愛されたスポーツマンでした。
ヨーロッパに長く滞在していた経験もあり語学に堪能な方で、英国留学された経験を持つお父さまの影響から英国紳士の振る舞いが付いていた当時としては珍しい方でした。

初めて康愛氏と久美子さんがお会いされたのは姉喜佐子さんと一緒に車(クライスラー)に乗って、千駄ヶ谷の松平家に出かけた日でした。お庭でテニスをされていた康愛氏を見た久美子さんは「なんて素敵なんだろう」と思われました。

久美子さんの姉喜佐子さんの結婚が終わるのを待ってから綾子さんは結婚を申し込まれました。

喜佐子さんが嫁がれたのは榊原子爵家、松平家は侯爵ということを気にされたからです。
このようにお話しされています。

当時の華族は爵位にこだわっていました。序列は、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の順で、徳川慶喜家は公爵でしたが、公爵を授爵したのは公家の最高位五家と武家からは徳川宗家、そのほか大きな勲功のあった家のみでした。
大政奉還で武家の時代は終わっていても、華族に限らず、まだまだ平等な社会とはほど遠い世の中でした。


昭和16年9月14日、結婚式は千駄ヶ谷の越前松平家の敷地内にある霊殿で行われ、帝国ホテルで上げられた披露宴には高松宮ご夫妻もご出席されました。

えー、ちなみに結婚式は中々大変でした。
①9月だからやぶ蚊が多い。裾が短い切袴だったのでやぶ蚊がドンドン袴の中に入ってくるのに掻くことができない
②御垂髪は全部自分の髪だから結婚式が終わったら全部洗って解いて、披露宴の為に島田を3時間かけて結わなければならない

仲人は松平恒雄ご夫妻でした。

結婚後福井に初めてご夫妻で行かれた際には、福井駅の改札から車に乗り込むまでずっと小学生が旗を持って並んでいたことに始まり、その間ずっと大歓迎されました。

結婚してから一か月も経たない頃、康愛氏は公募されていた海軍兵科予備学生の第一期生に応募されていました。

戦争は避けられないことは宮中にも政府にも近い松平家にも伝わっていましたから、一兵卒として陸軍に入るよりも、一年頑張ればスマートに制服を着て短剣を吊る海軍少尉になる方がいいと考えられたのです。

昭和16年12月8日に太平洋戦争開戦。

昭和17年1月下旬、康愛氏は横須賀第一海兵団に出発し予備校生生活に入られ、新婚生活はわずか3か月で終わりを告げました。

康愛氏が入隊後、久美子さんは千駄ヶ谷の松平家で舅姑と同居することになりましたが、お姑さんからは余り優しくしてもらえず、なかなか難しい生活だったとのことです。
(自分から嫁にくれと頭を下げておきながら何だその態度は言いたくなりますね)

昭和17年8月30日に長男が生まれましたが、二日後に亡くなるという悲劇に襲われました。

昭和18年1月に海軍少尉に任命されました。

昭和19年1月長女智子が誕生しました。この時、康愛氏は鹿児島の航空隊に移動していました。


舅姑、娘と共に疎開することになった久美子さんは八王子に行きましたが、空襲でご自分の家財道具を乗せたトラックが焼けてしまい、八王子には姑の荷物だけが到着しました。

敷地2000坪の農家に暮らし、毎日毎日農作業です。

「世が世なら江戸城のお姫様」などと言ってはいられません。

近所の農家からもらった絣でモンペを縫い、足袋も自分で縫ってずっと終戦まで過ごしました。背中にアザが出来るほどたくさんのサツマイモを担いだり、リヤカーを引いたり、自分で井戸水を汲み薪割りをして火を焚くという作業を行いました。

パラオへの出征直前のご主人に会いに千駄ヶ谷へ行った時もモンペ姿でした。

家族三人で過ごしたのはパラオ出征までのわずかな間だけで、智子さんはお父さまの顔をほとんど覚えていません。

昭和20年3月の東京大空襲以降も大きな空襲があり、八王子のような田舎でも空襲に襲われたのです。

8月2日の八王子空襲では、たった一つだけ持ち出すことが出来た葵の御紋がはいった箪笥を守ろうと必死の覚悟で家を守りました。
(家は燃えずに残りましたが、火の手はお隣にまで届いており、また瓦礫が足に当たって怪我をされました)

玉音放送を聞いた時には戦争に負けた悔しさよりも、出征した夫が帰ってくるという喜びの方が大きかったと仰っています。

千駄ヶ谷の松平家に戻ってからも舅姑との生活は続きました。
跡取り息子が帰ってくるか分からないという不安の中で唯一の希望が智子さんでしたから、舅姑と久美子さんとの間で智子さんを奪い合うような毎日でした。

生家の第六天の徳川慶喜邸は屋敷の周りに植えられた木によって延焼から逃れることができましたが、周りの家は全部焼け落ちてしまったほどのひどさでした。

昭和21年、康愛氏の戦死公報が来ました。
(高松宮日記にも高松宮さまが悲しんでいる記述がある)

戦死報告と言っても遺骨どころかどういう風に亡くなったのかということもまったく分からない「二十年六月四日、比島で戦死」とだけしか書いてありません。
昭和21年9月1日に松平邸で葬儀が行われました。
日本中に戦争未亡人が多い時代で、久美子さんの同級生にもいました。家族誰も欠けていない家はないという時代でした。
一年祭を終えた昭和22年夏ごろには戦死の事実を受け入れるまでになっていたのです。
(後に刊行された海軍関係の本で康愛氏はフィリピンのゲリラの銃弾に倒れたと判明しました)

さてそんな中、

まだ若い女性が後家じゃいかんと、周囲は高松宮ご夫妻を始め久美子さんの再婚相手探しに動いていました。

そして再婚されたのが康愛氏の成城高校時代の親友井手次郎氏でした。

二人はアイスホッケー部の仲間。
井手氏は名古屋大学医学部を卒業後、東京築地の海軍軍医学校を修了して、サイパン島に出征しました。
サイパンは当時「地獄の三丁目」と呼ばれていました。
康愛氏は久美子さんに「井手はサイパンにいくことになったそうだ。あそこは米軍が上陸し必ず激戦になる。かわいそうだが、助からないだろう」と悔しそうに話されていました。
「絶対に死ぬ」と思っていた井手さんが昭和21年に親友の為に御線香をあげに千駄ヶ谷の松平邸に来た時には家族みんなが驚きました。
命からがら帰国した井手氏と戦争未亡人の久美子さんの結婚話が持ち上がりました。
どういう人かよくご存知でしたし、年齢が離れていないこともあって再婚することになりました。
(若い男性は戦争でバンバン死んでたので父親位年が離れた相手と再婚するなんてこともあった)

結婚することは嬉しいことでしたが、同時に悲しいこともありました。
松平家が智子さんを離さなかったのです。
松平家にとっては康愛氏はたった一人の息子。その血を引く子は智子さんしかいません。家康の次男秀康公以来の由緒ある越前松平家を途絶えさせるわけにはいかなかったのです。
久美子さんも徳川家に育ってのですから大名家が背負った重さは分かります。
母親として智子さんとは別れたくないと言う久美子さんを徳川家と松平家が説得し、智子さんは松平家に残り、久美子さんだけが離籍するということになりました。

松平家に残った智子さんはその後、田安徳川家出身徳川宗紀氏と結婚されました。
松平に婿養子に入った宗紀氏が越前松平家20代目当主です。
智子さんは二男一女に恵まれています。
(越前松平家も女系ですね)

昭和22年12月、井手次郎氏と再婚された久美子さん
結婚当初は井手氏の実家がある目白で暮らしていましたが、兄弟が多かったので二十五人家族という大所帯でした。
2年後には横浜市南区に引っ越し、そこで長男純さんが誕生されてます。
が、前記事でも書いた通りとてもじゃないが、子どもと一緒に暮らせるような環境じゃなかったので、高輪宮邸内にある官舎で暮らし始めました。

生涯現役を貫いたご主人は医者として平成16年に肺がんで亡くなられています。

それは奇しくも喜久子さまの背の君高松宮さまと同じ病でした。

同じ敷地内に住むということで高松宮ご夫妻も何かと井出医師にはお世話になっていました。

高松宮殿下がこれほどまでに久美子さま一家に優しかったのにはやはりご自身が海軍の軍人だったからと言うことがあると久美子さんは考えられています。

殿下はは私たち家族を実の兄弟家族のように可愛がり、面倒をみてくださいました。そこには、妃殿下の妹一家であるということ以上に、戦死した最初の主人・松平と、玉砕から生き残った井手、一家のそうした背景に対する思いが、殿下の心の奥底にあられたのだと感じています。また海軍ご出身だったこともあり、サイパンで九死に一生を得た主人のことを同志のような部下のような、そういう目で見ていらしたのかもしれません。言葉にはなさいませんでしたが、殿下は海軍
出身のご自分が、陛下にご意見をして戦争を回避することができたかもしれないといつも悔やんでいらしのではないでしょうか。あのとき、どんなに憎まれても陛下に諫言できるのは実の弟であり、
米国の軍事力と国力を知り抜いていらした殿下だけだった、そのことは周りの誰よりもご自身が一番おわかりでいらしたことと思います。


ご主人が亡くなった後は高輪から千葉県に移られています。

平成22年には国際仏教学大学院大学の開校二周年記念講演に招かれ、70年ぶりに小石川第六天の地を訪れていらっしゃいます。
第六天の徳川慶喜邸は財務省や大蔵省の官舎として使われた後、大学の敷地として払い下げられました。
大学が敷地全体を引き継いだことで屋敷の跡地がそのまま残っています。

平成30年7月1日、95年の激動の人生を終えられました。

デイリースポーツによると、久美子さんのお葬式でハプニングが起こりました。
葬儀場から火葬場への移動中、何と霊柩車の前輪がパンクして路上で代替車が来るまで立ち往生したのです!

ひつぎには姉の故高松宮妃喜久子殿下ら皇族と会う時にかぶっていた帽子や愛用の赤いセーター、著書などが入れられた。その後、ハプニングは起きた。葬儀会場から火葬場に移動する道中、霊きゅう車の前輪がパンク。代替車の到着まで約30分間も、路上で立ち往生するという一幕があったのだ。長男の純さんは「2000回ほど葬式をされている住職さんが『霊きゅう車がパンクしたのは初めてです』と言っておられました。よほど焼かれるのが嫌だったのか?“おてんば”だったオフクロらしい出来事でした」と、ユーモアを交えながら亡き母をしのんだ。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180705-00000033-dal-ent

昭和生まれのじいちゃんばあちゃんも大変だったと思うが、やっぱり明治大正生まれの人生の濃さって度合いが違う。

戦争中成人していたかどうかでかなり異なる。

男性は軍隊に入って出征してたり(ヘカ祖父がこれ)、戦争未亡人になって苦労したりと本当に大変だった。

というか家の為にたった一人の子どもを取り上げられるということを現実として体験した世代だからね。

人にもよると思うが、全体的にみるとやっぱり昭和生まれよりも大正の方がタフだよ(特に女性)。
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No title

サーヤが大学を卒業した直後からご学友の方々が続々結婚していった。
学生時代に彼女たちからお付き合いしている男性がいるとか
そういった話を一切聞いていなかったサーヤとミテコさまは驚いた。
(ご学友の方々はお見合いで縁談がまとまってた)
そして子飼いのマスコミを使って「サーヤさまのお婿さん候補!」と
名家のご子息に狙いをつけて「勝手に」報道させて、
マスコミに追っかけさせた。
報道された男性たちやご両親はビックリ。皆さん海外に逃げたり
急いで他の女性と結婚して逃げた。
両親であるリョーヘーカは縁談のまとめ方を知らない。
ミテコさんは旧皇族家・旧華族にいじめられた!と報道させ、
悪者扱いし、敵にまわしてこれらの人脈を絶った。

鯰の結婚も、鯰が「勝手に連れてきた女」で、喪中婚約、学生結婚、
兄宮を差し置いて結婚とやりたい放題。
鯰が連れてきた嫁もまともな人脈は皆無。その娘も「勝手に連れてきた男」と婚約してゴタゴタしている。

なるほど

兄殿下の愚行を諌められるのは弟殿下こそですよね!
人格否定発言とか。

HNが梔子なら

文字通り、口出し無用
さっさと巣に帰りなさい。

No title

>>兄殿下の愚行を諌められるのは弟殿下こそですよね!
人格否定発言とか。

心ある国民は、
「皇太子さまが人格発言されたのは余程のことがあったのだ。
流石、雅子さまを命懸けで守っていらっしゃる。」
と喝采しましたよ!!
痛いところをつかれた者どもが自分たちの悪事を隠すために
マスコミを使って東宮批判し、自分たちを正当化しているのだと。

そして今、マスコミを使って正当化した者どもの
化けの皮が次々に剥がれています。   
「原因と結果の法則」通りに世の中は動いているのです。

マスコミが決して報じない秋篠宮の酒癖の悪さ、
女癖の悪さは、直接聞いています。
お子さま方が気の毒だから拡散しないだけです。
兄殿下に意見できるような人物でないことは
顔や表情に表れていますよ。
プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@yahoo.co.jp

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