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列外派星くず日記

―令和の天皇ご一家を愛する者たちが集うブログ―

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山屋他人の友人だった百武三郎侍従長について取り上げてみよう

昭和61年に発売された岸田秀夫の『天皇と侍従長(朝日文庫)』を購入しました。
(ブックオフで108円で売ってた(笑))
 
「およ!」と思うことが書いてあったので記事にしたいと思います。

鈴木貫太郎侍従長が七十歳になるのを機に辞任することになりましたが、後任がなかなか決まりません。

野村吉三郎海軍大将、米内光政海軍大将(後に海相)、藤田尚徳海軍大将(のちに侍従長)、農林次官石黒忠篤らが上がりました。

元老の西園寺は「武官は嫌だが、文官の石黒も井沢多喜男系だから嫌だ」として上記の人たちを拒否

難航の末に決まったのは百武三郎でした。

昭和11年11月20日に就任しました

百武三郎は鈴木貫太郎と同じ海軍大将でしたが昭和3年7月に予備役となっていました。

就任した時の年齢は当時としては高齢な65歳

百武三郎になった理由は
「人格もいいし、海軍等のいろんな人に聞くと、非常に地味で立派な人だそうだ。他の連中もみな賛成している(松平恒雄宮内大臣)」
「百武という人は佐賀の人だ。そのお父つぁんもよく識っている・・・・・・まあ人格者というんならいいだろう(西園寺)」
「海軍から人選するについて、最も配慮されたことは、ロンドン条約関係者と目されるような人物は一切避けて、何れにも偏せず、無
味無臭の人物を求めたという点、及びこれまで兎角政治的のかかわりを持っているような人物は特に時節柄下げようという点であった(『朝日新聞昭和11年11月20日付け)


政治に関係なく、温厚にして厳正公平、そして健康であることという諸条件がぴったり合ったのが百武大将でした。

ロンドン軍縮条約が原因で海軍内ではきな臭い暗闘が繰り広げていました。
前任の鈴木侍従長は条約派と見なされていて海軍内に影響力があった為、侍従長の存在が政治的に見られがちでした。

その点百武三郎はロンドン条約で海軍が揉めている時期には既に予備役でした。
そして鈴木侍従長のような華々しい経歴はないものの、人格は高潔な人でした。

百武三郎は佐賀藩士百武庭蔵の三男として生まれました。
雅子さまの曾祖父江頭安太郎と同じ佐賀藩ですね。
弟の源吾は海軍大将、九州帝大総長を務め、もう一人の弟の晴吉も陸軍中将(ガナルカナル島で戦病死)と兄弟そろってエリート。
中でも百武三郎は海軍兵学校入学すると卒業するまでずっと主席でした。
(これも江頭安太郎と同じ)

日清戦争では黄海の海戦に参加、
日露戦争では水雷長、
ドイツで3年軍政を学んでからはオーストリア駐在武官、
鎮海、舞鶴司令官、練習艦隊司令官、佐世保鎮守府司令長官を歴任、
海軍大将になってまもなく予備役に編入

侍従長に抜擢されたと聞かされた時百武三郎は大変驚きました。
というのも予備役になってから8年も過ぎており、そして当時としては65歳のおじいちゃん。

近所に住む山屋他人海軍大将と「朝顔をみる会」や菊作りを楽しみに余生を過ごしていました

はい、注目!!

雅子さまの曾祖父山屋他人と百武三郎侍従長は近所に住む友人だったのです!!

仲がよかったから山屋他人の娘の山屋寿々子さん、そして百武三郎と同じ佐賀藩士の子孫である江頭安太郎中将の息子の江頭豊の結婚式の媒酌人になったんですね。

百武三郎の長女幸子さんはこのように話しています。
「父は、もう御用済みと思っていましただけに、大命を拝して、それはそれは緊張し、眠れぬ夜が続いたようでございました」

侍従長に就任してからもまじめな性格は変わりません。
それを間近で見ていた後に侍従長となる入江相政はこのように話しています
「謹厳実直、あれ以上まじめな人は見たことがない。『スーパーまじめ人間』というのでしょうか」

当時としては長身で脚が長く、昭和天皇の車に陪乗する時は、対座したシートに礼を失しないように座るのに苦労し、家に帰って「これが、邪魔だ」と長い脚を叩いて嘆いていたという逸話があります。

スーパーまじめ人間ですから昭和12年1月の宇垣内閣流産事件の時は激怒しました。
(組閣の大命が降りていたのに、陸軍が大反対して陸軍大臣を送らなかったので組閣が流産した)

侍従長として陛下のお召しを真っ先に宇垣に電話で連絡し、組閣流産に至る経緯を見てきた百武は陸軍の暴挙に激怒。
元老西園寺に「陸軍が大権の発動に対してこれを阻止したのはけしからん話です」と手紙を送ったり、松平宮相に「もし侍従長としてかれこれすることが悪ければ、自分は侍従長の職をやめても陛下の大権を守りたい」とまで話しました。
激怒し過ぎてご飯も食べられませんし、眠れません。

激怒するおじいちゃん侍従長を昭和天皇は「ああ興奮しておれば、身体が参らないのか」と心配しました。

百武は昭和19年8月まで侍従長を務めました。
何とこのとき73歳

70歳の頃から「体力に自信がない」と辞任したがっていましたが、後任がいないという理由で却下されていました。
戦時中は長野県松代の地下に天皇の御座所と大本営を作り始めていたので、山坂が多い信州は体力的にきついという理由でした。

侍従長を辞任した後は、枢密顧問官に任ぜられ、玉音放送を天皇が臨席した枢密院会議場で聞きました。

昭和20年の東京大空襲で幡ヶ谷の自宅が焼けてからは、藤沢市片瀬海岸の別荘に引っ越しました。
昭和21年8月、戦病が元で一人息子の信安(海軍少佐)が亡くなりました。
公職追放で、恩給も無し。土地を手放しても生活は苦しかったのです。

寂しい生活を送っていた百武の元に突然昭和天皇からお呼びが掛かったのは昭和23年5月

昭和天皇の三女孝宮和子内親王が学習院専修科を卒業。
「花嫁修業をさせてやりたい」と考えた昭和天皇と良子さまの考えで百武が内親王さまを預かることになったのです。

長女幸子さんは百武家をこのように話されています
「父が葉隠、母(満治子、山口県士族李家頼蔵の長女)が萩でございましょ、私たちに対する礼儀作法のしつげがもうきびしくって・・・・・・ぴりぴりしておりました。父が座敷で寝ころがった姿なんて見たことがございません」
(ヘカテーが百武家に嫁に行ったら1時間で出戻りになりそうだ(笑))

超真面目な百武の家なら孝宮さまを預けても大丈夫と昭和天皇は判断されたのでしょう。

百武家は藤沢から紀尾井町の宮内庁官舎に引っ越し、そこで一年間孝宮さまと生活されました。

掃除、洗濯、料理から買い物と主婦としての心得を学んだ他、百武家の人達とラジオを囲んで「鐘の鳴る丘」などの連続放送劇を楽しみました。
夜は百武三郎が毎夜孝宮さまの寝室の隣の部屋で寝て万が一に備えました。

良子さまも孝宮さまの様子を見に百武家にお見えになりました。
(これには百武家も大慌て)

昭和25年5月に五摂家の一つ鷹司家の鷹司平通氏と結婚。

新婚早々、鷹司ご夫妻は片瀬に戻った百武家を訪問されたこともありました。

晩年の百武三郎は昭和天皇と良子さまが葉山にお見えの際にはよくお目にかかり、百武が献上したエビを良子さまが絵に描かれたこともありました。

亡き長男の遺児信茂が東大法学部に入学した昭和38年10月30日藤沢市で脳血栓のために亡くなりました。
九十一歳という当時としては大変な長寿を全うしたのです。

2014年に発見された『百武三郎日記』は『昭和天皇実録』の資料として採用されています。
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Comment

時代 

「時代」を感じますね。戦前の、まだ武士道の残り香が、かろうじてあった時代。
今の時代には望めない人だと思います。
雅子さまのご先祖や、その周囲にいた人たちは、本当に大人物が多いですね。皇室との縁も深い。
  • posted by ルイーズ 
  • URL 
  • 2018.11/27 04:59分 
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