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列外派星くず日記

―令和の天皇ご一家を愛する者たちが集うブログ―

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『海軍料亭 小松物語』

溜まりに溜まっていたブログ更新を新元号が発表される前にやっておかなければ!!と頑張っているヘカテーです。

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火事で燃えてしまった海軍料亭「小松」にあった山屋他人海軍大将の書

解読できずにいたヘカテーはひらめいた
「あれ?もしかして小松に関する本に書いてあるんじゃね?」

ということで鎌倉市の図書館から借りてみた

『海軍料亭 小松物語
浅田勁著 かなしん出版 1994年3月発行

横須賀の老舗料亭小松は明治18年に開業し、明治17年に横須賀鎮守府が開設されたことで海軍関係者が主な客でした。

海軍料亭と言われていました。

歴代海軍大臣、連合艦隊司令長官、横須賀鎮守府長官を始めとした日本海軍の重鎮がこの店に通いました。

料亭小松は西浦賀の旅籠料理屋吉川屋で20年仕事をしてきた山本悦(のちにコマツ)が、明治18年に開業しました。

浦賀は幕末に幕府の造船所、明治5年委海軍省造船局出張所が設立された日本海軍発祥地として発展してきましたが、明治17年に横須賀に鎮守府が設立されるとその座を横須賀に譲りました。

吉川屋で海軍の軍人からの誘いがあったのです。
コマツは開業のいきさつをこのように話しました。
>「殊に海軍の方からは行々横須賀は日本一の軍港になるから是非横須賀で開業しろ、俺達の遊び場を作って呉なぞと勧められましたので、私いつまでも他人様の家に計りは居られませんし、それやこれやで、私が三十八歳の明治十八年の八月の八日、八の字が三ツ重なります日は、縁起が善いからと申しますので、田戸へ開業を致しました」

料亭小松の創業者である山本悦は嘉永二年(1849年)に小石川で生まれました。
大庄屋だった家が没落してその頃栄えていた浦賀へ出稼ぎに来ました。
最初は芸者になるつもりでしたが、向いていなかった為に浦賀一の旅籠料理屋に務めることになりました。
旅籠料理屋だからセクシーなサービスをすると思ったら大間違い!
浦賀奉行所や明治政府の重鎮が訪れるお店でした。

明治8年秋、山田顕義、山縣有朋、西郷従道らを連れて浦賀沖で行われた水雷発射試験を見学する為に浦賀に来た小松宮、北白川宮、伏見宮、山階宮の四人の宮様方が吉川屋に宿泊しました。

山本悦は夜の宴席で四人の宮様と指相撲をし、何と四連勝してしまった。
>「私は体重が十八貫三百目もありまして、女といたしましては大女の方でしたので、吉川屋の大きいので通っておりました」
と自ら語るような体格の女性でした。

18貫300目って何キロやねんと思って調べたら約69キログラムでした
小松宮は悦の膂力に感心した。

>「わしは、お前の立派な体格に肖かりたい、その代りわしがお前に名を付けてやろう」と言って「小松」の名前を悦に授けた。翌朝、郡長の小川茂周がご機嫌伺いのために皇族を訪ねると、小松宮は小川に「わしが大きいのに、昨夜名を付けて遣ったから、郡長改名の手続をしてやって呉れ」。悦は本字の「小松」では恐れ多いとして、片仮名の「コマツ」と改名した。料亭「小松」の名前の由来である。「私は御酒の上の一時の御座興とのみ存じておりましたのに、真実然かも『コマツ』と宮様のお名を頂きましたのですから、そうと知りますと有難やら勿体ないやらで、胸が一ぱいになりました位。九十年の長い生涯中、このとき程強く身にしみましたことはありません」。後年、悦は「刀自傳」でこう語っている。

小松宮彰仁親王の銅像は上野公園にありますね。

この本には東郷平八郎、山本五十六、米内光政、鈴木貫太郎らと共にこのお方のエピソードがありました

山屋他人海軍大将
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長いのですが引用しますと
≪引用始め≫
皇太子妃・雅子さまの母方の祖父の山屋他人も日露戦争の日本海海戦では巡洋艦「笠置」の艦長として戦っている。横浜エフエム放送代表取締役副社長で、歴史の素養の深い小谷野修は、ある企業の月刊誌に寄稿した「皇太子妃雅子さまのご先祖のことにふれて」のなかで、山屋について「海軍きっての戦術学者で海軍大学教官のとき、一つの戦法を編み出し、世にこれを山屋流の戦術と称しました。彼は軍政家ではなくて、軍令家もしくは兵学教官の提督でした」と書いている。
岩手県・盛岡生まれの山屋は海軍兵学校十二期の卒業で、海軍大学校校長、第一艦隊司令官、海軍軍令部長などを経て大正七年(一九一八年)六月、第二艦隊司令長官、八年(一九一九年)十二月に大将となった後、第一艦隊司令長官に転じた。次いで、九年(一九二〇年)九月から十一年(一九二一年)七月まで横須賀鎮守府司令長官を務めている。当然コマツは、この山屋とも親しかった。
ところでコマツは父親が四十二歳の厄年で生まれている。昔の迷信に、親が四十二歳の厄年に生まれた子供は、いったん捨て子にしてから「他人」に拾ってもらったうえで名をつけないと満足に育たないと言われた。このため、コマツは「棄てられない代りに、暫く名を付けず、ただ赤ちゃんで通っていました。その後悦と申す名がついたのですが、相当の年頃まで赤ちゃんと申す呼び名がつづきました」(「刀自傳」)と語っている。
コマツがなにかの折にそのことを山屋に話すと、山屋は「女将実は俺も父の四十二歳のときの子供なのだよ、ところが俺の阿爺は至って、ひょうきんな人だったものだから、棄てたり拾ったりは面倒だ、一層初めっから他人なら面倒もあるまいというので、俺の名を他人と付けたのだよ」と説明した。山屋も小松に書を残しているが、達筆すぎて、直枝も読みくだせないという。

≪引用終わり≫

浅田さんは山屋他人を雅子さまの母方祖父と書いてますが、正しくは曽祖父です。

山屋他人も歴代長官同様に長官部屋を利用していたすごい人なのだ。

そしてこの本でも何て書いてあるのか分からずヘカテー涙(笑)

やっぱり楽をしちゃダメなんですね。
ちなみに1960年に出版された『山本小松刀自傳』も鎌倉市の図書館にあったので借りたのですが、こちらにも無し。
(こういう本が所蔵されている所が鎌倉市の図書館のすごいところです。山階宮家の本がさらっとあった時もヘカテーは驚いたぞ)

直枝さんというのは山本コマツの養女で二代目女将です。
この本は直枝さんの貴重なエピソードを残したいという目的で作られた本なのです。

戦後、海軍が無くなってからも料亭小松は続き、昭和60年には創業100年を迎えました。

海軍の人間にとって料亭小松はどういう存在だったかを知るエピソードがこの本に書いてあります。

≪引用始め≫
平成5年(一九九三年)五月十三日には、裏千家家元の千宗室が訪れた。千は同志社大学から海軍に入隊、海軍第十四期飛行専修予備学生の中尉で、号は鵬雲斎。十四期予備学生は三千人のうち約六百五十人が戦死している。生死をともにした十四期予備学生によって昭和五十四年(一九七九年)に「鵬亀会」と名付けた茶の会が作られた。この鵬亀会と裏千家淡交会横須賀支部(村瀬博三支部長)の合同懇親茶会が小松で開かれたのである。実は、千にとって小松は海軍中尉時代からのあこがれの的だった。しかし、格式の高い小松に足を踏み入れることは出来なかった。
それが、学徒動員・海軍入隊五十年目にして初めて実現した。長年の夢だったから、その間隙はひとしおだった。千は言う。「おじ(母親の長兄)が海軍少将だったので、小松の話はしばしば聞いた。自分も軍人になったら小松に行けると思ったが、少尉や中尉ではだめだった。初めてうかがい、さすが海軍がお世話になったところだと思った。とにかく感激した。これで縁ができた」。
≪引用終わり≫

この千宗室さんは三笠宮さまの次女である千容子さんのお舅さんです


明日いよいよ新年号が公表されます。

雅子さまのご先祖様を知って欲しいと時間が掛かりましたが頑張って記事にしてみました!!
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Comment

No title 

雅子さまの母方の曽祖父山屋他人さまのお名前は他人と書いて何と読むのだろうと思っていて、そのままの「たにん」なんですね!由来が面白い。
山屋他人さまの父君が42歳の厄年の時にお生まれになられ縁起が悪いので一旦外に捨てて他人に拾ってもらう、「阿爺は棄てたり、拾ったりは面倒だ、一層初めっから他人なら面倒もあるまいというので他人と名付けたのだよ」のくだりは中々味のあるものでした。
他でも場所によっては橋の下に捨ててそこから拾って来ると母親から聞いたことがあります。
私も母親の厄年33歳の時の子供で一旦橋の下に捨てたと言われていました。
厄年は今の時代にあっても厄除けのお祓いをする習慣がありますね!
明治の激動の時代の人達の生き方は戦争という常に緊張感を以って生きていた方々ですから、生きるという意味は非常に重みのあるものだったと思います。
山屋他人さまのお写真からも品性のある重要なお役に付かれていたことが伺われます。
本当にご立派な方でしたね!
  • posted by つばきちゃん 
  • URL 
  • 2019.04/01 17:48分 
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プリンセスマサコのエキスから作られた美容液が発売されるんですって
さすが

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190401-00838540-wwdjapan-life

単なる情報提供なのでヘカテー様の判断で削除してください
  • posted by 774 
  • URL 
  • 2019.04/01 19:04分 
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新元号おめでとうございます 

ヘカテーさま、お忙しいのですから
ブログ更新は、ゆっくりで良いですよ。
ヘカテー様のお気持ちは、ブログ更新なくても、
しっかりと伝わっていますから。
ともあれ、素敵な元号でよかったです。
新天皇陛下、皇后陛下にぴったりくる優美な元号だと思います。
  • posted by 猫のタマ 
  • URL 
  • 2019.04/02 10:10分 
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裏千家家元 

現在は大宗匠、千玄室として、今なお様々な活動をされてらっしゃいます
京都では知らぬ人などいない凄い方
そんな方が長年の憧れだったとおっしゃるのだから、さぞかしと思われます
あ、HNの大昔とは、平安京平城京以外の、都だった所という意味で使ってます
先週特攻をかけられた所為なのか、こちらは寒くて寒くて、桜も進みません

小渕さんが「平成」の額を掲げた時は、昭和じゃなくなるというのがにわかに信じられなかったのを覚えてます。
年がバレますが成人式を控えていたので重い空気の中、中止になると言われるかと思いましたが、流石にそれはなく、無事振袖も着ることができませした。

令和、清らかに、和やかに、新帝にふさわしい、良き世になりますように
  • posted by 大昔はみやこ 
  • URL 
  • 2019.04/03 10:23分 
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このような逸話がない現皇后陛下 

紀子様はかろうじて会津藩士や大阪市長のご先祖様いますが、現皇后の美智子様に関しては、館林の裕福な商家以外全くありませんよね。

雅子様が皇太子妃として内定されてからは、チッソの会長だった江頭豊氏が祖父であることだけが大きく報道され、明治や大正、昭和の皇族と深い関わりがあった雅子様のご先祖様がいることは全くといっていいほど取り上げていませんでした。私をはじめ誰も皇族と縁が深いご先祖様がいらしたのをしりませんでした。


千宗室さんの海軍時代の上官には山屋大将を直接知っている人も多くいたでしょう。故高松宮殿下も海軍出身でいらした。
喜久子妃殿下は雅子様のご先祖さまに皇室とゆかりのある方がいらしらのもご存じだったのでしょう。

だから愛子さまがご誕生の際には大変お喜ばれたのでしょうね。


ヘカテーさんを始め皆様の努力、ネットの普及により意図的に隠されていた事実が誰でも簡単に知る事ができるようになりました。
でも喜久子様や千宗室さんなど、皇族華族はとっくに知っていたのでしょう。 それを必死で隠してきたのはもう誰だったのか分かりますね。

民間出身をアピールし国民の支持を得た美智子様ですが、もしかしたらご自分が平民出身を一番恥と感じており、自分より出自の良い雅子さまに嫉妬しつづけているんでしょうね・
  • posted by ホルン 
  • URL 
  • 2019.04/05 08:57分 
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