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列外派星くず日記

―令和の天皇ご一家を愛する者たちが集うブログ―

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教浄寺にお墓詣り

二日目に教浄寺に行ってきました

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盛岡駅から山田線に乗って次の駅「上盛岡駅」が最寄駅です。

盛岡五山 時宗 擁護山教浄寺 と書いてあります。
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まあこんなブログを見て「よし私もお墓詣りに行こう」と思う人はいないと思いますが。
教浄寺の境内は門をくぐった先です。

その途中に墓場がありますが、それは御隣のお寺です。
私は間違って入って時間をロスしました。

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こちらが本堂です↓
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本堂のすぐ前にあるのが山屋他人の碑です
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なんて書いてあるかというと
「山屋家の祖は稗貫の亀ヶ森氏、戦国期の末南部氏に仕え山屋姓を名乗る。南部重信公のとき、山屋勘右衛門分家を小越、七代勝寿に慶応二年三月、一子他人生まる。
他人は幼少より性温厚、専ら学究に励み、齢十四にして志を立て単身上京、伯父野辺地尚義の許に攻玉社に学ぶ。明治十五年、築地の海軍兵学校に入校、同十九年、優秀な成績を修め卒業、これより生涯を海軍軍人として国防に献身す。同期に江頭安太郎あり。
明治二十九年、他人は鎌倉八幡宮宮司丹羽房忠の一女貞子と結婚、四男・五女をもうける。末子寿々子は後に江頭安太郎の三男豊に嫁し皇太子妃雅子殿下はその一女小和田優美子の長女である。
明治三十三年、山屋他人は海軍大学校の教官に任じ、海軍戦術を講義す。その円戦術は後任の秋山真之に引き継がれ、明治三十八年日本海海戦の大勝利に実を結ぶ。
大正三年、第一次世界大戦に際し、他人は聯合艦隊第一南遣枝隊司令官として南太平洋作戦に活躍、大正八年、海軍大将に昇進、同九年聯合艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官を経て軍事参議官、同十二年予備役となる。 
愛郷の念深く、晩年は、南部家顧問、岩手学生会会長をはじめ、後進の活躍を支援するところ大であった。盛岡八幡宮の社標「盛岡鎮守」は他人の揮毫である。昭和十五年病を得、九月十日逝去。海軍葬が行われ、葬儀委員長は米内光政であった。
現墓所は昭和六年、山屋家先祖を敬尚して新たに他人が建てたものである。この度東京西麻布長谷寺の他人、貞子の墓所より分骨をこの地に埋葬するとともに、ここに一碑を建立して永くその功業を顕彰するものである。
平成十五年四月
山屋他人、貞子を祖父母とする者一同 枝栄会 」


元々山屋家のお墓はこの教浄寺にありましたが、山屋他人は東京で亡くなったので東京にお墓がありました。

ちなみに本堂を挟んで左側にはこんな碑もあった
宮沢賢治の碑です。
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教浄寺に宮沢賢治が下宿してたのでこのような碑があるんですね

新潟の小和田家のお墓は墓地が入り組んでいるのでダンジョンみたいでしたが、
 
教浄寺はそこまで入り組んでいなかったので20分くらいで見つかりました。

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山屋家墓
(墓碑銘は山屋太郎氏以降は一般の方なので「これも個人情報だよね」と思って伏せました)
(山屋太郎氏は『高松宮日記』に記載のある方なので表に出しました)

ちゃんとお線香をあげてきました

山屋家の後ろにあるお墓はかろうじて「山屋」と読める位古い墓石です

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