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列外派星くず日記

―令和の天皇ご一家を愛する者たちが集うブログ―

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盛岡八幡宮参拝

上盛岡駅は一時間に一本しか電車が無いという駅なので

ヘカテーは頭を使って岩手県立中央病院まで歩きました。
そこからタクシーで盛岡八幡宮へ

盛岡はやっと梅が咲き始めたところです

盛岡鎮守という山屋他人揮毫の社標!!!
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この前日が雨でこの日もパラパラと時折小雨が降った天気だったので社標も濡れています。

盛岡八幡宮自体は鎌倉の鶴岡八幡宮よりも小さいですね。

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雪残ってるし
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境内には盛岡っ子大好きな米内光政の銅像もあります
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米内光政は山屋他人の海軍葬の葬儀委員長をした人というのは列外派読者さまはご存知の方も多いでしょう。

どうして山屋他人が盛岡八幡宮の社標を書いたのかというとですな

『新岩手人通巻110号 〔昭和15年〕10月号』に掲載された鈴木 巌元衆院議員が「山屋大将に書を書かせた話」という手記に理由が書いてありました。

鈴木巌は盛岡出身の立憲政友会に所属していた衆院議員でした。

この『新岩手人通巻110号 〔昭和15年〕10月号』自体がほぼ山屋他人追悼特集です。

ちょっと長いけど引用します。
原文は旧字体旧かなですが、ここでは新字体新かなにさせてもらいます
≪引用始め≫
晩年は南部家の顧問役であったが、それ以外何事にもたずさわず悠々自適の生涯を送られた。時々南部邸で顔を見る事もあったが、そうした場合田中館博士とこの大将の態度は昔臣下のものが君侯の前に出たとき斯うもあっただろうと思われるような謹直なものであった。大将現役を退いてから何うせ暇になったのだから郷里にお帰りになっては何うですか、決して御迷惑かけません唯大将が盛岡に居られるというそれだけでよいのですからと帰盛を勧めてみたが、大将はイヤですと即座に謝絶された。それは又何いうワケなのですかと聞いて見たら、私は寒さに非常に困る、盛岡に帰れというのは早くしねということですからというので二の句がつけずして止めたことがある。
曾て盛岡の有志の人達から八幡宮の社標を大将に書いて頂きたいと取次ぎ頼まれて上京の序に大将にお願いしてみたが、大将はこれも断って盛岡には山口剛介先生や新渡戸仙岳先生など立派な書家が居られるのに、私に書けとはそりゃ無理だとお断り申しますということだった。其処で成る程盛岡には山口、新渡戸両先生があって大将よりは上手ですが、しかし有志の人々は海軍大将の肩書ある閣下にお願いして後進指導にもしたいということなのですといったら、海軍大将などの肩書はこの隠居には何にもなりません真平御免を蒙ります。といわれるので斯くまでお願いしても御承諾がないとならば已むを得ません、私も覚悟がありますので、帰盛したらその有志の人達にそのように話しますが、そうすればお前の取次ぎがよくなかったので大将の御承諾を得なかったのであろうからと、今度は有志の人々打ち揃うて上京直接御願いすることになるでしょうから予めお含みを願いたいといったら、それはヒドイ、そうまで脅かされては私も已むを得ない書きますといって揮毫されたのは、今の八幡宮前にある盛岡鎮守と大書された社標で、海軍大将山屋他人謹書とあるによって立派な記念物になったワケである。

≪引用終わり≫

この温暖化が叫ばれている21世紀ですら4月の盛岡には雪が残っております。
昭和初期なんて滅茶苦茶寒いぞ!!
昔の日本の家なんて今の家と違って基本木造だから滅茶苦茶寒い
「盛岡生まれだから寒さに慣れてるから余裕でしょ?」と思う人もいるかもしれませんが、
基本年寄りは血行が悪くなるので寒がりになります。

山口剛介というのは盛岡藩士で書家として有名な人で、新渡戸仙岳は教育者であり郷土史家である人です。

海軍大将という地位はヘーセーに生きている私たちからはイマイチ分かりにくいが

これだけの逸材を出している盛岡人から求められるというのはすごいことなんだぞ!

山屋他人という人は本当に海軍一筋で頑張ってきた人なんですね。

もうちょっとズルい人なら国会議員になったり、爵位をもらえるように動いたりするけど

そういう肩書は求めない人だった。
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Comment

 

岩手県までお越しいただきありがとうございます。以前このブログで紹介されていた山屋大将の碑がある盛岡一高、県立中央病院から徒歩5分くらいのところにあります。盛岡中心部はそんなに広くないのですが、公共交通機関の使い勝手が悪くて、大変だったことと思います。
地元の人間でさえ知らないことまでこのように調べて下さって、本当にありがとうございます。
  • posted by 岩手県民 
  • URL 
  • 2019.04/13 14:02分 
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  • [Res]

卑しいひととは身分ではなく、心の問題 

雅子様のご努力の結果の、輝かしいご経歴が、なぜあれだけねじ曲げられたのか?

皇室に入られて出会われた、庶民以下レベルの人達。
かつてのご自分の環境には、なかったことでしたでしょう。
適応障害にもなります。

いわゆる嫉妬されたのです。美智子さん、紀子さんに。

ご先祖様の山屋他人閣下のことも、なんとなく削除され、有栖川宮様に由緣のある、古賀氏のことも削除。

やたらチッソのことばかり取り上げられ、屈辱的なことばかりされてきました。

卑しい所から、嫁いだ方は、色々と捏造してしまうのですね。
自分をよく見せようとして、他人をさげすむ。美智子さん、紀子さんが皇室に入ってはいけなかったのですね。

小室さんを引き入れることもなかったのです。

由緒ある家系に戻すべきです。
やはり、皇統は、皇太子様、雅子様の家系のままにするべき。
敬宮様のオーラの違い。
皇太子様は、敬宮様以外いらっしゃらない。
  • posted by CHI-BA 
  • URL 
  • 2019.04/15 20:23分 
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No title 

美智子皇后は平民でも裕福な家庭で育ち、何不自由の無いお暮らしでしたのに、雅子さまが皇太子妃になられてからお変わりになられたんですね!
皇后が明仁皇太子に嫁がれる時は裕福な家庭らしく、大型トラック3台分の花嫁道具を持参されたことは当時のテレビで流されて知っていましたし、提灯行列で五反田の正田邸前は大変な騒ぎでした。
昭和天皇ご存命の頃から「開かれた皇室」を熟に少しづつ伝統を変えて行ったのも知っています。
当時は まだご両親を「おもうさま」「おたあさま」と皇室言葉で読んでいた事を特別な方々として、威厳に満ちた世界を感じていたのですが、平成になり天皇、皇后がお出ましになることも多くなり、身近になり過ぎて破壊と威厳が失せて行くのも平成の特徴でもありました。
明仁皇太子時代は「北白川筆子さん」が有力なお妃候補でしたのに、いつの間にか正田美智子が皇太子妃として内定したことは世間の度肝を抜かれたのを覚えています。
その経緯も定かではありませんが、小泉信三氏が正田美智子を強く押していたと聞きます。
あの時の正田美智子さんは平民とはいえお育ちの良さを感じたものですが、何処でどう変わってしまわれたのでしょうか?
普通は色才兼備、頭脳明晰、家系もご立派な出の方で、徳仁皇太子妃として申し分無いお方、姑として自慢の妃である筈ですのに、やはり何処かに平民の卑しさが滲み出るものなのでしょうかね!

毎日のように忍びと言ってはカメラ付きの散策、これ程までに引き際の悪い方は知りません。
  • posted by つばきちゃん 
  • URL 
  • 2019.04/22 01:28分 
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プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
東宮応援派のハマコー改め新天皇応援派のハマコー
新天皇皇后両陛下並びに敬宮殿下を愛する鎌倉市民だにゃー
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@yahoo.co.jp

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