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列外派星くず日記

―令和の天皇ご一家を愛する者たちが集うブログ―

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皇女常宮昌子内親王が当主よりも威張ってた竹田宮家

浅見雅男さんの『歴史の余白』という本を読んでたら気になることが書いてあった。

明治天皇には成人した子供が5人いた

大正天皇を筆頭に、四人の皇女常宮(つねのみや)昌子内親王、周宮(かねのみや)房子内親王、富美宮(ふみのみや)允子内親王、泰宮(やすのみや)聰子内親王

ちなみにOTMA萌えのヘカテーは四人の皇女をTKFYと呼んでます

明治天皇は四人の皇女とはほとんど接することなかった。

常宮が竹田宮恒久王と結婚する際に挨拶に行ったところ、誰だが分からなかったほどです。

公私の別を分けなければならないと考えていたからでしたが、

全くかわいいと思ってなかったわけではなかった。

上記本にはこのように書いてあります。

>内親王が「昌子でございます」と頭をさげると、天皇はあたりを見回し、ひとのいないことを確かめてから近くに呼びよせ、満面に笑みを浮かべながら祝いの言葉をかけ、部屋にある戸棚から宝石をちりばめた指輪などをとりだしてあたえた。その光景を襖のあいだからひそかに見ていた女官たちは感涙にむせんだという。婚儀のおこなわれたあとも天皇は、「これで常宮も片付いて大安心した」と喜びをかくさず、晩餐のときに皇后にもワインを飲むようにすすめるという、日ごろは決して見せない姿で側近たちをおどろかせた。
(上記本9ページ引用)


前にも記事にしましたが、

明治天皇は成人した四人の皇女を臣下と結婚させたくないと考えました。
しかし四人の皇女と結婚可能な年齢の宮家の当主は北白川宮家にしかいません。
次男坊以下と結婚すると臣籍降下しなくてはなりません(爵位はもらえます)。

「じゃあないなら作ればいいじゃん」
と創設されたのが竹田、朝香、東久邇の3つの宮家です。

はい、ここ注目
竹田、朝香、東久邇の3つの宮家は女の子の為に作られた宮家なのです!!

東久邇宮家を創設してもらったのに稔彦王は「俺皇族やめたかったのに当主にさせられた」と不満タラタラで皇女である泰宮が大人しい事をいいことにやりたい放題してました。

しかし常宮は偉大なる明治大帝の実質的な長女ということで妹たちよりも兎に角プライドが高かった。

浅見さんは『有馬頼寧日記』と『倉富勇三郎日記』を引用してどれだけ常宮が威張っていたかと書いてます。

有馬頼寧は筑後久留米藩主有馬家の15代目当主で日本中央競馬会の理事長を務めていたので有馬記念の名前が残っています。
妻貞子が北白川宮能久親王の娘なので北白川宮能久親王の子である竹田宮恒久王の腹違いの妹です。

倉富 勇三郎は司法宮内官僚で枢密院議長を務めた人です

「わー、読みたい読みたい!」と思ったヘカテーは『有馬日記』と『倉富日記』を鎌倉市の図書館を経由して県立図書館から借りました。
びっくりしたことに神奈川県内では県立図書館にしか2冊ともないのよ

さてさてこの2冊の日記で触れられているのは竹田宮恒久王の卒去です

大正8年4月23日に卒去したのですが

この前後にかなりゴタゴタしてるのです。

【4月20日倉富日記】
四月廿日。午前九時後、宮内省宿直書記官大谷正男より電話にて、竹田宮殿下感冒より肺炎となり、脈百十、呼吸四十位にて、侍医より危篤と云ふ御容体には非さるも、御重体と云ふに付、通知すと云ふ。予ご機嫌伺ひを遠慮する様の必要はなきやと云ひたるに、右様のことはなし。既に伺ひに行く人もある様なりと云へり。
予、東久邇宮邸に電話し、竹田宮殿下御病気のことに付、何か報知ありたるやを問ふ。属官某通知ありたるに付、前橋に行き居る金井事務官に電報にて通知したる
午前十一時頃朝香宮邸折田有彦に電話し、竹田宮御病気に付、朝香宮よりは既に御見舞に行きたるやを問ふ。折田未た行かず。今日午後行く積りなり。
(113ページ引用)


4月20日になって倉富は竹田宮の状態が悪いと知った。
義弟の有馬が知ったのは4月19日でした

【4月19日の有馬日記】
夕総頼さん久し振りで見へたけれど竹田宮殿下遽に御重患との事で早々にして高輪にかけつけた。十二日頃から風邪にかゝられた処十七日から肺炎になられ極めて御重体との事、皆様御集りで御襖の影から御様子を見上げた。酸素吸入、注射等種々手を尽され先づ〴〵との十二時近く帰宅した。二十日の夕方また悪く皆様おかけつけといふ騒ぎであったけれど食塩注射で又もち直され十二時頃皆一度帰宅した。医者も多過ぎ其他の人も多過ぎる様だ。(60ページから引用)


4月23日に卒去したことを考えると容体が悪いと知るのがかなり遅いんですよね。
義弟である有馬や他の宮家もかなり遅い。
突然急変したのかなと思ってたら倉富日記にその答えが見えた

【4月22日の倉富日記】
小原は、竹田宮殿下の御病気は十二日よりの御発病にて、十六日より肺炎の徴候あり。十七日には愈々肺炎と診断ありたるに拘はらす、何処にも報告もせす。北白川宮の大妃にも、北白川宮にも、御重態になりたる後、十八日に到り始めて之を報知し、北白川宮大妃及王殿下等急遽大阪又は京都より御帰京あらせらるゝ様の不都合を生したるは、畢竟宮附職員が妃殿下にのみ重きを置き、王殿下のことは之を軽視する悪弊が此節の御病気にて偶然実現したるもの、附属職員は十分之を懲戒すへきものと思へとも、次官圷は何も成し居らさる様なり。大木某は竹田宮御用掛なるに、其人にさへ御重態になるまて何事も通知せさりし由なり。北白川宮附山辺知春は、大阪より帰り来りて非常に竹田宮附職員の不都合を憤慨し居りたりと云ひ居れリ。
(120ページから引用)


宮様が「妃殿下の方が偉いから御当主様はどうでもいいやー」と職員から舐められていたというわけですな

倉富日記を読むと宮中が喪に服すかどうかでも揉めています。

【4月23日の倉富日記】
大森鍾一(皇后宮大夫)来り、宮中喪のことを主張し、予は初めより、宮中喪は行はせらるゝは相当なることを述ふ。其理由は、是まて竹田宮殿下と同等位の御関係の皇族薨去の時に、宮中喪を行はせられたる例なしと云ふも、単に王殿下の御関係のみにて之を決することを得す。妃殿下は今上の御妹君にあらせらるゝを以て、其情誼を斟酌して宮中喪を仰出さるゝは当然なり。
(122ページから引用)


山階宮菊麿王の時は宮中喪は無かった。それと同じ様な身位なのだから宮中喪は倉富は言いました。
結局、「明治大帝の皇女で今上陛下の妹の夫だから」という理由で三日間の宮中喪に服することになりました

兎に角竹田宮は「明治天皇の皇女の夫」「大正天皇の皇妹の夫」という身分だったのです。

義弟の有馬は結構辛辣です。

【有馬日記5月2日】
御葬儀の日も雨今日も亦雨、御降り性と見へる。午前中高輪の御邸で御祭、午後は豊嶋岡墓所祭夕方帰る。恒徳王殿下がしきりに躁いで居られるのを大妃殿下や其他の方々が気にされるのを見て居ると一寸妙な感がする。心からかなしそうな顔をして居られる大妃殿下と嬉々として噪いで居られる恒徳王とは果してどれだけの差があるのだろふか。一方は自分のかなしみを表面に表はすの術を知ると同時に又自分は思ふて居る事と反対な顔をする事も出来る人であるが、一方は自分の思ふて居るまゝを顔に表すより外に術を知らぬものである。神は何れの人の心を喜ばれるであろふ。「死にたるものは死にしものをして葬らしめよ。」幼き人は長じたる後に心から其父を思ふ時がある。それで十分なのだ。
(66ページから引用)


嫌味たらしいわー!!

「お前本当は悲しいと思ってないだろ」と言わんばかりです。

実は義理の兄にあたる竹田宮を有馬は非常に慕っていたのです。
なので「皇女と結婚したから宮家の当主になれただけの人」と使用人にまで舐められていた義兄を憐れんでいたんですね。

大正8年の有馬日記の補遺はもっとすごくて
殿下の御生涯は、決して御幸福ではなかつた。私から見れば、寧ろ御不幸な御生涯といふべきである。それにも拘らず、特に不平をもらせらるる様な事もなく、寧ろ周囲の人が御同情申上ぐる位であつた。〈中略〉妃殿下が先帝陛下に似させられて居る事は、人々の云ふ処である。私は此度、殿下の御重体の時より御臨終の時に亘つて妃殿下の取られた処置に対しては、実に敬服に堪へなかつた。内に悲しみの情をもたらせられながら、表はあく迄も冷静に些の取り乱したる御容子もなく、人々に対して一々御礼の御言葉賜はる様など、真に婦人の模範とするに足る。唯惜むらくは、あまりに剛毅にして女としての御柔みを欠かせられた事は、御家庭をして幾分御不幸ならしめた原因である。これは残念であるけれど、万全を望む事は無理である。兎も角御婦人としては珍しい方である。
(158~159ページから引用)


明治天皇に似た剛毅な性格で当主である夫よりも威張っていた。

これが竹田宮家の実情でした

朝香宮家もこれほどではありませんが、皇女である妃殿下の方が車や馬車では上座で、当主は妻を名前の「允子」と絶対に呼ばず御称号の「富美宮さん」と呼んでいました。

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明治天皇の側室とお子様たち 

明治天皇の側室は5人いたと記述があり、他に一人子供に恵まれなかったために記述が無い側室が最後の6人目もいたとされています。

明治天皇、昭憲皇太后との間には子供がいない。
そこで側室名を明記してみました。

1》葉室光子…公家出身で19歳で側室になる。
男子を出産するも子供は間も無く死亡した。
光子自身も産後の不良による出産の4日後に若干20歳で死亡。

2》橋本夏子…公家出身で16歳で側室になる。
1873年11月に女児を死産、その翌日夏子自身も帰らぬ人になった。

3》柳原愛子(なるこ)…2男1女を出産するも二人目の息子嘉仁親王(後の大正天皇)だけでした。

4》園 祥子…13歳で側室になる。
最終的に2男6女という8人の子宝に恵まれるが、そのうち2男1女は幼くして死亡。
成人するまで生き残った子供は5人いるが、すべて女子のために皇太子となることはなかった。
この2番目の娘(昌子)は後の1908年に陸軍少将・竹田宮恒久王となる人と結婚、この子孫が元皇族芸能人竹田恒泰。

5》千種任子(ちぐさことこ)…2女を出産するも二人とも幼くして死亡。

明治天皇は最終的には5人の息子と10人の娘をもうけた。
しかし、4人の息子、6人の娘は5歳になる前に亡くしている。
無事成人出来たのは5人だけで息子はただ一人で、他4人は娘です。
子供の死因の理由は明らかにされていませんが、当時の医療技術が発展していなかったことも原因としてありますが、明治天皇自身も病弱だったため、それが遺伝したかも知れない。

こうしてみると明治天皇の成人した娘の生母は13歳で側室になった園 祥子と言える。

ヘカテーさまへ
明治天皇の成人した娘の生母を知りたくてちょっと調べてしまいましたが、明治天皇、昭憲皇太后の間にはお子がなく、大正天皇の生母は柳原愛子という側室の子だとだけ分かってましたので、詳しく知りたい気持ちが湧き出て済みませんでした。

五摂家と宮家の格差は面白かったですね!初めて知りました。
このことで明治時代の皇室の一端が垣間見られて、昭憲皇太后の皇后としての舵取りも側室との関係性も少し分かった気がします。
大変な思いをされて調べられ厚く御礼申し上げます。
  • posted by つばきちゃん 
  • URL 
  • 2019.07/09 22:11分 
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