2020.09/09 [Wed]
1909年9月9日に生まれた秩父宮妃勢津子さま
本当は去年生誕110周年で記事にするつもりでしたが、例によって例のごとく間に合わなくてやっと今日記事にできます
本日9月9日は秩父宮妃勢津子さまのお誕生日です
(笹川良一は大嫌いだがカラーの勢津子さまは貴重なので引用しました)
今から11年前の2009年7月15日から9月6日までの間に『福島民報』で「会津から嫁いだ姫 秩父宮妃勢津子さま生誕100年」というシリーズ記事が10回連載されました
1909年9月9日9時少し前、ロンドン郊外ウォルトン・オン・テームズで一人の女の子が誕生しました。
重陽の節句に生まれたとということから「節子」と名付けられました。
父君は外交官の松平恒雄氏
(最後の会津藩主松平容保公の四男)
母君は松平信子氏
(旧鍋島藩主家当主鍋島直大侯爵四女。姉は梨本宮妃伊都子。貞明皇后のマナーの教師であり、常盤会会長となった。)
会津藩は戊辰戦争で「朝敵」の汚名を着せられていた。
外交官だった松平氏の仕事の関係で英国で生まれた勢津子さまは中国で暮らした後に、日本に帰国。
女子学習院に進学されました。
ここで樺山愛輔伯爵の娘である白州正子と友情を育まれた。
その後また父君の仕事の都合で渡米し、ワシントンで青春時代を過ごされました。
当然ながら英語ペラペラでした
大正天皇危篤の方を受けて英国から帰国途中の秩父宮さまが大使公邸に一泊されたのが大正15年
その翌年昭和2年に結婚話が持ち上がった。
勢津子さまを選んだのは同じ字の「節子」という名前の貞明皇后
勢津子さまの平民という身分や朝敵の孫である生まれについては「嫌うに及ばず」と言って人物本位で勢津子さまを選ばれました。
恒雄氏はいったん断りましたが、貞明皇后の使者として樺山愛輔伯爵が大使公邸を訪れた。
「私は皇族になれるはずがない」と拒否されて食事もとらず、自室で泣いていた勢津子さまを説得したのは会津藩士の娘で松平家養育係の高橋たか
「皆さま、会津魂をお持ちでございます」
その一言で18歳の少女は決意した。
『福島民報 2009年7月17日』の第一部3回目の記事では会津若松市立会津図書館長の野口信一さんはこのように高橋たかについて語っています
「会津藩の子女は日新館などに通えなかったが、しっかりとした家庭教育としつけを受けていた。その典型が高橋たかだ」
郡山市湖南町千手院には「おたか地蔵」がある。
石碑にはこのように書かれている
「乳母として三十有余年を忠勤を励んで、松平家にとっては得難い忠実な女子」
こちらの動画におたか地蔵と勢津子さまがお成りになった石碑が映ってます
昭和62年に会津にお成りになった勢津子さまもこの碑の前で手を合わされています
勢津子さまがご両親と秩父宮さまと婚約されてから会津に里帰りされた際には物凄い歓迎を受けました。
当時の記録がこちら
「人々の情緒は狂喜というくらいかに思いました。戸々皆国旗を掲げ、あるいは提灯をつるし、道ばたに堵列して送迎し、自動車が進みがたいことがあったのであります」
(昭和3年12月発行「会津雑誌第33号」掲載。『福島民報 2009年7月18日』から転載)
鶴ヶ城本丸跡地では有志4,5万人が集まり歓迎会を開いた。
旧財団法人会津保松会の理事長だった鈴木善九郎さん(88歳)は当時小学生。
「勢津子さまご家族が本丸跡の舞台に上がられると、『万歳』と叫び、波が押しては引くように何度もワァーと取り囲んだ」
と振り返ります
(『福島民報 2009年7月18日』)
さらに鈴木さんはこのように勢津子さまについて語っています
「勢津子さまは会津が朝敵ではなかったという証しを立ててくれた人。だから大切にしないといけない」
(『福島民報 2009年7月18日』)
勢津子さまは昭和3年9月に名前を「節子」から「勢津子」に改められました。
貞明皇后の名前の「節子(さだこ)」と被るので恐れ多いという理由です。
勢津子の伊勢の勢、津は会津の津です
お父様の恒雄さんは爵位がない平民だったので松平家本家を継いだ保男子爵の養女となって秩父宮さまとご成婚
昭和28年1月に秩父宮さまがお隠れになってからは一人で秩父宮家をお守りになられた勢津子さま
日英協会名誉総裁、結核予防会総裁、日本赤十字社名誉副総裁等の総裁職を務められた他に、国際親善や医療福祉の向上、スポーツと文化の振興に尽くされた。
会津の事も忘れず、昭和30年には東横デパートで開かれた会津の観光物産展に御臨席され、観光物産展はその後も定期的に開催されるようになりました。
松平家13代目当主で勢津子さまの従兄弟に当たる松平保定氏は勢津子さまが会津にお成りの際には同行している。
昭和62年に会津にお成りになった際の笑顔が忘れられないと松平保定氏は言う。
「会津への思いは強く、会津に来ると、心からほっとされているようだった」
((『福島民報 2009年7月19日』)
平成7年8月25日、勢津子さまは85歳で薨去される。
その8年後の平成15年8月、秩父宮妃勢津子殿下記念事業委員会が中心となって会津若松市の御薬園に顕彰碑のレリーフが建てられ今も功績を称えられている。
2009年7月には勢津子さま生誕100年を記念して会津若松市鶴ヶ城の若松城天守閣郷土博物館で「戊辰戦争後の会津」展が開催された。
この企画展では勢津子さまがお輿入れの際に持参された守り刀「来国俊」、十二単などが展示されました
また会津若松市にある国指定名勝「会津松平氏庭園・御薬園」には木造二階建ての重陽閣があります。
この建物は東山温泉の新滝旅館の別館(勢津子さまが秩父宮さまとの結婚が決まって里帰りされた際に建てられた建物)を移築したものです。
昭和48年に移築され、一階の「想い出の部屋」には勢津子さまの写真などが展示されています。
この重陽閣は勢津子さまが誕生された日が重陽の節句であることから勢津子さまが名づけられました。
勢津子さまの直筆の横額が残っています
こちらの動画に映ってます↓
「会津から嫁いだ姫」の第二部では勢津子さまと交流があった人のインタビューが記事になってます。
それぞれ勢津子さまがどのような人だったのか語っています。
会津藩士町野主水の孫井村百合子さん(2009年当時105歳)は会津から上京した17歳の頃に松平恒雄氏のお住まいに伺うようになった人です。
勢津子さまについてこのように話しています。
(引用始め)
勢津子さまと私は五つ違いでした。よく覚えているのは、英国王室のコンノート殿下が来日された折、接待に当たられる勢津子さまのお支度を手伝いをしたことでございます、まだ、ご結婚前でしたが、大変きれいで品の良い、それは見事なお姫様でした。昭和三年に秩父宮さまとのご結婚が決まったときは、何が何だか分からないくらい、驚きました。戊辰戦争後、会津は「朝敵」とされ、さまざまな面で蔑視されておりました。それだけ容保公のお孫さんである勢津子さまの皇室入りは「本当によかった」と、心から思ったものです。私も結婚してしばらくお会いする機会がありませんでしたが、戦後になると、赤坂の御殿にお招きにより上がることが増えました。最初は御殿の手前で車から降りて門から玄関まで長い距離を歩いていたのですが、勢津子さまはある日、そのことに気づかれ、「玄関まで入るように」と言ってくださいました。夏になると、会津から枝豆が届くのですが、それを持って御殿に上がると、「お国のものはおいしいわね」と、大層喜んでいただいたことが忘れられません。
(引用終わり)
(「会津から嫁いだ姫 第2部1回目」『福島民報 2009年9月2日』より引用)
また会津会会長の川島広守さんはこのように話しています。
(引用始め)
勢津子さまには新年とお誕生日、時候のあいさつに宮邸に参上するなど、年に一度はお会いしました。いつも笑顔で話され、相手を思いやる温かい心遣いが忘れられません。
(引用終わり)
(「会津から嫁いだ姫 第2部2回目」『福島民報 2009年9月3日』より引用)
勢津子さまに仕えた元秩父宮家宮務官山口峯生さんは勢津子さまのお人柄についてこのように語られている。
(引用始め)
七十歳を超えてからも、結核予防会総裁、日本赤十字名誉副総裁、交通遺児育英会名誉総裁などとして、精力的に公務をこなされていました。昭和五十九年の記録をみると、年間七十一件、月六件の割合で公務がありました。英語が堪能で、外国の賓客との会合などにも頻繁に出席されていました。特に結核予防会の活動には熱心でした。平成六年に秋篠宮妃紀子さまが後任に就かれるまで、会の発展に尽力されています。おそばに仕えていてしみじみ感じたのは、とても心の広い、思いやりの深い方だったということです。誰にでも分け隔てなく接してくださり、私も風邪をひいたときなど、お気遣いの言葉と風邪薬をいただきました。その一方で、国や社会のことを常に念頭に置かれていました。昭和六十一年と翌六十二年に心臓発作を起こされ、主治医からは公務を減らすように勧められました。それでも、秩父宮さまとゆかりの深い日本陸上OB会総会や秩父宮記念学術賞の表彰式などには車いすでお出かけになられました。それを支えていたのは皇族としての使命感であり、国家社会の為に役立ちたいという強い信念だったような気がします。勢津子さまは会津人である父の松平恒雄氏から「皇族は皇族らしくあれ」との教えを受けていらしたようで、その教えを見事に守られたのだと思います、
(引用終わり)
(「会津から嫁いだ姫 第2部4回目」『福島民報 2009年9月5日』より引用)
勢津子さまがお住まいになった秩父宮邸は現在秋篠さんちが大改造しまくって元の形は分かりにくくなってます。
あと勢津子さまが会津藩士が曾祖父のキーコさまをかわいがったというのも嘘です。
昭和天皇を支えたお方が喪中に婚約するキーコさまを認めるわけがない
余談ですが、勢津子さまが↓の動画の0分50秒で身につけていらっしゃるネックレスは
皇后陛下に譲られています
会津の汚名は雪がれたが、勢津子さまと松平信子さんに着せられた「平民だからとミテコさまを虐めた鬼婆」という汚名はまだ完全に雪がれていないのが残念です
このブログではこれからも秩父高松両妃殿下に着せられた汚名を雪ぐ為に頑張ります
*コメントされる際には絶対にメールアドレスをコメント欄に入れないで下さい!!全員に閲覧できるようになりますので絶対に入れないで下さい!!*
本日9月9日は秩父宮妃勢津子さまのお誕生日です
(笹川良一は大嫌いだがカラーの勢津子さまは貴重なので引用しました)
今から11年前の2009年7月15日から9月6日までの間に『福島民報』で「会津から嫁いだ姫 秩父宮妃勢津子さま生誕100年」というシリーズ記事が10回連載されました
1909年9月9日9時少し前、ロンドン郊外ウォルトン・オン・テームズで一人の女の子が誕生しました。
重陽の節句に生まれたとということから「節子」と名付けられました。
父君は外交官の松平恒雄氏
(最後の会津藩主松平容保公の四男)
母君は松平信子氏
(旧鍋島藩主家当主鍋島直大侯爵四女。姉は梨本宮妃伊都子。貞明皇后のマナーの教師であり、常盤会会長となった。)
会津藩は戊辰戦争で「朝敵」の汚名を着せられていた。
外交官だった松平氏の仕事の関係で英国で生まれた勢津子さまは中国で暮らした後に、日本に帰国。
女子学習院に進学されました。
ここで樺山愛輔伯爵の娘である白州正子と友情を育まれた。
その後また父君の仕事の都合で渡米し、ワシントンで青春時代を過ごされました。
当然ながら英語ペラペラでした
大正天皇危篤の方を受けて英国から帰国途中の秩父宮さまが大使公邸に一泊されたのが大正15年
その翌年昭和2年に結婚話が持ち上がった。
勢津子さまを選んだのは同じ字の「節子」という名前の貞明皇后
勢津子さまの平民という身分や朝敵の孫である生まれについては「嫌うに及ばず」と言って人物本位で勢津子さまを選ばれました。
恒雄氏はいったん断りましたが、貞明皇后の使者として樺山愛輔伯爵が大使公邸を訪れた。
「私は皇族になれるはずがない」と拒否されて食事もとらず、自室で泣いていた勢津子さまを説得したのは会津藩士の娘で松平家養育係の高橋たか
「皆さま、会津魂をお持ちでございます」
その一言で18歳の少女は決意した。
『福島民報 2009年7月17日』の第一部3回目の記事では会津若松市立会津図書館長の野口信一さんはこのように高橋たかについて語っています
「会津藩の子女は日新館などに通えなかったが、しっかりとした家庭教育としつけを受けていた。その典型が高橋たかだ」
郡山市湖南町千手院には「おたか地蔵」がある。
石碑にはこのように書かれている
「乳母として三十有余年を忠勤を励んで、松平家にとっては得難い忠実な女子」
こちらの動画におたか地蔵と勢津子さまがお成りになった石碑が映ってます
昭和62年に会津にお成りになった勢津子さまもこの碑の前で手を合わされています
勢津子さまがご両親と秩父宮さまと婚約されてから会津に里帰りされた際には物凄い歓迎を受けました。
当時の記録がこちら
「人々の情緒は狂喜というくらいかに思いました。戸々皆国旗を掲げ、あるいは提灯をつるし、道ばたに堵列して送迎し、自動車が進みがたいことがあったのであります」
(昭和3年12月発行「会津雑誌第33号」掲載。『福島民報 2009年7月18日』から転載)
鶴ヶ城本丸跡地では有志4,5万人が集まり歓迎会を開いた。
旧財団法人会津保松会の理事長だった鈴木善九郎さん(88歳)は当時小学生。
「勢津子さまご家族が本丸跡の舞台に上がられると、『万歳』と叫び、波が押しては引くように何度もワァーと取り囲んだ」
と振り返ります
(『福島民報 2009年7月18日』)
さらに鈴木さんはこのように勢津子さまについて語っています
「勢津子さまは会津が朝敵ではなかったという証しを立ててくれた人。だから大切にしないといけない」
(『福島民報 2009年7月18日』)
勢津子さまは昭和3年9月に名前を「節子」から「勢津子」に改められました。
貞明皇后の名前の「節子(さだこ)」と被るので恐れ多いという理由です。
勢津子の伊勢の勢、津は会津の津です
お父様の恒雄さんは爵位がない平民だったので松平家本家を継いだ保男子爵の養女となって秩父宮さまとご成婚
昭和28年1月に秩父宮さまがお隠れになってからは一人で秩父宮家をお守りになられた勢津子さま
日英協会名誉総裁、結核予防会総裁、日本赤十字社名誉副総裁等の総裁職を務められた他に、国際親善や医療福祉の向上、スポーツと文化の振興に尽くされた。
会津の事も忘れず、昭和30年には東横デパートで開かれた会津の観光物産展に御臨席され、観光物産展はその後も定期的に開催されるようになりました。
松平家13代目当主で勢津子さまの従兄弟に当たる松平保定氏は勢津子さまが会津にお成りの際には同行している。
昭和62年に会津にお成りになった際の笑顔が忘れられないと松平保定氏は言う。
「会津への思いは強く、会津に来ると、心からほっとされているようだった」
((『福島民報 2009年7月19日』)
平成7年8月25日、勢津子さまは85歳で薨去される。
その8年後の平成15年8月、秩父宮妃勢津子殿下記念事業委員会が中心となって会津若松市の御薬園に顕彰碑のレリーフが建てられ今も功績を称えられている。
2009年7月には勢津子さま生誕100年を記念して会津若松市鶴ヶ城の若松城天守閣郷土博物館で「戊辰戦争後の会津」展が開催された。
この企画展では勢津子さまがお輿入れの際に持参された守り刀「来国俊」、十二単などが展示されました
また会津若松市にある国指定名勝「会津松平氏庭園・御薬園」には木造二階建ての重陽閣があります。
この建物は東山温泉の新滝旅館の別館(勢津子さまが秩父宮さまとの結婚が決まって里帰りされた際に建てられた建物)を移築したものです。
昭和48年に移築され、一階の「想い出の部屋」には勢津子さまの写真などが展示されています。
この重陽閣は勢津子さまが誕生された日が重陽の節句であることから勢津子さまが名づけられました。
勢津子さまの直筆の横額が残っています
こちらの動画に映ってます↓
「会津から嫁いだ姫」の第二部では勢津子さまと交流があった人のインタビューが記事になってます。
それぞれ勢津子さまがどのような人だったのか語っています。
会津藩士町野主水の孫井村百合子さん(2009年当時105歳)は会津から上京した17歳の頃に松平恒雄氏のお住まいに伺うようになった人です。
勢津子さまについてこのように話しています。
(引用始め)
勢津子さまと私は五つ違いでした。よく覚えているのは、英国王室のコンノート殿下が来日された折、接待に当たられる勢津子さまのお支度を手伝いをしたことでございます、まだ、ご結婚前でしたが、大変きれいで品の良い、それは見事なお姫様でした。昭和三年に秩父宮さまとのご結婚が決まったときは、何が何だか分からないくらい、驚きました。戊辰戦争後、会津は「朝敵」とされ、さまざまな面で蔑視されておりました。それだけ容保公のお孫さんである勢津子さまの皇室入りは「本当によかった」と、心から思ったものです。私も結婚してしばらくお会いする機会がありませんでしたが、戦後になると、赤坂の御殿にお招きにより上がることが増えました。最初は御殿の手前で車から降りて門から玄関まで長い距離を歩いていたのですが、勢津子さまはある日、そのことに気づかれ、「玄関まで入るように」と言ってくださいました。夏になると、会津から枝豆が届くのですが、それを持って御殿に上がると、「お国のものはおいしいわね」と、大層喜んでいただいたことが忘れられません。
(引用終わり)
(「会津から嫁いだ姫 第2部1回目」『福島民報 2009年9月2日』より引用)
また会津会会長の川島広守さんはこのように話しています。
(引用始め)
勢津子さまには新年とお誕生日、時候のあいさつに宮邸に参上するなど、年に一度はお会いしました。いつも笑顔で話され、相手を思いやる温かい心遣いが忘れられません。
(引用終わり)
(「会津から嫁いだ姫 第2部2回目」『福島民報 2009年9月3日』より引用)
勢津子さまに仕えた元秩父宮家宮務官山口峯生さんは勢津子さまのお人柄についてこのように語られている。
(引用始め)
七十歳を超えてからも、結核予防会総裁、日本赤十字名誉副総裁、交通遺児育英会名誉総裁などとして、精力的に公務をこなされていました。昭和五十九年の記録をみると、年間七十一件、月六件の割合で公務がありました。英語が堪能で、外国の賓客との会合などにも頻繁に出席されていました。特に結核予防会の活動には熱心でした。平成六年に秋篠宮妃紀子さまが後任に就かれるまで、会の発展に尽力されています。おそばに仕えていてしみじみ感じたのは、とても心の広い、思いやりの深い方だったということです。誰にでも分け隔てなく接してくださり、私も風邪をひいたときなど、お気遣いの言葉と風邪薬をいただきました。その一方で、国や社会のことを常に念頭に置かれていました。昭和六十一年と翌六十二年に心臓発作を起こされ、主治医からは公務を減らすように勧められました。それでも、秩父宮さまとゆかりの深い日本陸上OB会総会や秩父宮記念学術賞の表彰式などには車いすでお出かけになられました。それを支えていたのは皇族としての使命感であり、国家社会の為に役立ちたいという強い信念だったような気がします。勢津子さまは会津人である父の松平恒雄氏から「皇族は皇族らしくあれ」との教えを受けていらしたようで、その教えを見事に守られたのだと思います、
(引用終わり)
(「会津から嫁いだ姫 第2部4回目」『福島民報 2009年9月5日』より引用)
勢津子さまがお住まいになった秩父宮邸は現在秋篠さんちが大改造しまくって元の形は分かりにくくなってます。
あと勢津子さまが会津藩士が曾祖父のキーコさまをかわいがったというのも嘘です。
昭和天皇を支えたお方が喪中に婚約するキーコさまを認めるわけがない
余談ですが、勢津子さまが↓の動画の0分50秒で身につけていらっしゃるネックレスは
皇后陛下に譲られています
会津の汚名は雪がれたが、勢津子さまと松平信子さんに着せられた「平民だからとミテコさまを虐めた鬼婆」という汚名はまだ完全に雪がれていないのが残念です
このブログではこれからも秩父高松両妃殿下に着せられた汚名を雪ぐ為に頑張ります
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銀のボンボニエール
その中に、皇太子ご夫妻(平成時代)の結婚を祝う気持ちが書かれています。
でも、礼宮と紀子との結婚は書かれていない。
その本から、勢津子妃が、どちらを可愛がっていたか明らかですね。