2014.11/29 [Sat]
昭和天皇のちょっといい話―巡幸―
昭和天皇ファンさまからのコメント
「平成の玉音放送」と岩井克己が!
あのビデオレターを「平成の玉音放送」と書いた者がいます。週間朝日で、ライターは岩井克己です。
あまりの浅はかな例えに絶句しました。
災害の内容も規模もシュチエーションも、なにもかも違うのに。
一番違うのは、背後にある「重い決断」「責任感」「国民への強い想い」「悔恨」などだと思います。
止められなかった開戦、戦って散っていった人々に対し、敗戦を認めることの辛さ。「想を致せば五内為に裂く」という気持ちで語っていたのですよね。そして、それでも、日本の運命を変えるのだ、自分は連合軍に殺されても仕方がない、と言う考えで語りかけている。
比べて、震災時のビデオレターは、基本的に他人事なんだよね。「大変な災害が起きちゃったけど、みんな落ち着いてね。僕は心配しているんだから」と言うだけ。この地震も津波も「何故か起きちゃった事」で、祭祀の結果では?とも思っていないし、天皇が何かを変えるわけでも、背負うわけでもない。
「玉音放送」なんて例えに納得する国民がいるわけないよ。でも、書かれて喜んでいる人はいる。
そう、明仁天皇自身です。
偉大すぎた父に対し、理解しようとせずコンプレックスだけ抱いている今上天皇に、何を言えば「最大のヨイショ」になるのか、岩井克己はよく知っていたと思うな。
こんな低レベルの記者に、いいように転がされているのが「平成の両陛下」。
頻繁な被災地慰問の事も、岩井は「平成の巡幸」と書いていたと思う。「慰めてあげてる」平成と、「国民が心配で、お詫びの気持ちをこめて国民に会いに行った」昭和と、何もかも違うのに!
まったく岩井って奴はとんでもねえ奴だな
と思いました。
すると本日読んだ『昭和天皇巡幸』という本に同じ内容の文章が載っていました。
終戦後の巡幸が「昭和の巡幸」なら、東日本大震災に当たっての被災地への巡幸は「平成の巡幸」と呼ぶにふさわしい。
震災五日後の平成二十二年三月十六日、天皇陛下が、テレビを通じて国民をお励ましになるメッセージを発せられたのは、ポツダム宣言を告げる昭和二十年八月十五日の玉音放送を彷彿とさせるものだった。
これ書いたの誰だと思いますか?
正解は竹田恒泰
はああ、と大きいため息が出ました。
竹田君と言えば「男系絶対派」の人ですね。
そんな自分を奮い立たせるためにこの本にあった昭和天皇エピソードをご紹介します。
300万人もの人々が犠牲になった日本。
占領国アメリカの世論は天皇はヒトラーやムッソリーニと同様に戦争責任があると70%を超えていました。
アメリカ国民の三分の一が天皇処刑に賛成でした。
なんとか天皇制廃止を免れた昭和天皇は昭和21年人間宣言をし、日本各地を視察されました。
巡幸の始まる直前、当時の行幸主務官加藤進氏は昭和天皇から巡幸に対する思いを聞かされました。
今度の戦争で、国の領土を失い、国民のなかに多数の死傷者を出し、たいへんな災厄を受けた。この際、私としてはどうすればいいのかと考えたが、結局、広く地方を歩いて遺家族や引き揚げ者を慰め、励まし、元の姿に返すことが自分の任務であると思う。私の健康とか何とかは全然考えなくてもいい、その志を達するよう全力を挙げてこれを行ってほしい
(引用上記本)
平成と違うところは国民の感情も今と全然違うということです。
共産党も調子に乗っていた時ですから、暗殺される可能性だってあります。
国民に「あんたのせいでこんな風になったんだ」と怒鳴られたり、殴られたりする危険性もあります。
そんな人も昭和天皇は「それも国民だ」と受け入れる覚悟があります。
埼玉の農家を訪問した昭和天皇を21歳の若者はこう感じたそうです。
戦争になったということで責任を感じ、国民の被害状況をご視察や、謝罪のお気持ちがうかがわれ、恐れ多い、という気持ちでいっぱいでしたね。
埼玉にて

千葉県を訪ねた時にはお召列車の中で車中泊もしました。
お風呂どころか寝台だってありません。
それを知った昭和天皇は不満に思うどころか
「戦災の国民のことを考えればなんでもない。十日くらい風呂に入らなくてもかまわぬ」
とお付きの者に言いました。
千葉県にて

感動的な話
鹿児島から去るときのことです。
陛下をお見送りする時のことです。陛下がお車に乗られたとき、それまでおとなしく並んでいた子どもたちが、とび出して陛下をとりまいたんです。陛下はニッコリ笑われながら、子どもたちの頭をなでられました。そうすると、子どもたちは、「ぼくも、ぼくも」と言うんです。陛下は「よしよし」とおうなずきになり、しまいには、両手で子どもたちの頭をなでてくださいました。
鹿児島にて

こういう話を知ると平成の両陛下に心を震わせるものがないのかなんとなくわかります。
「平成の玉音放送」と岩井克己が!
あのビデオレターを「平成の玉音放送」と書いた者がいます。週間朝日で、ライターは岩井克己です。
あまりの浅はかな例えに絶句しました。
災害の内容も規模もシュチエーションも、なにもかも違うのに。
一番違うのは、背後にある「重い決断」「責任感」「国民への強い想い」「悔恨」などだと思います。
止められなかった開戦、戦って散っていった人々に対し、敗戦を認めることの辛さ。「想を致せば五内為に裂く」という気持ちで語っていたのですよね。そして、それでも、日本の運命を変えるのだ、自分は連合軍に殺されても仕方がない、と言う考えで語りかけている。
比べて、震災時のビデオレターは、基本的に他人事なんだよね。「大変な災害が起きちゃったけど、みんな落ち着いてね。僕は心配しているんだから」と言うだけ。この地震も津波も「何故か起きちゃった事」で、祭祀の結果では?とも思っていないし、天皇が何かを変えるわけでも、背負うわけでもない。
「玉音放送」なんて例えに納得する国民がいるわけないよ。でも、書かれて喜んでいる人はいる。
そう、明仁天皇自身です。
偉大すぎた父に対し、理解しようとせずコンプレックスだけ抱いている今上天皇に、何を言えば「最大のヨイショ」になるのか、岩井克己はよく知っていたと思うな。
こんな低レベルの記者に、いいように転がされているのが「平成の両陛下」。
頻繁な被災地慰問の事も、岩井は「平成の巡幸」と書いていたと思う。「慰めてあげてる」平成と、「国民が心配で、お詫びの気持ちをこめて国民に会いに行った」昭和と、何もかも違うのに!
まったく岩井って奴はとんでもねえ奴だな
と思いました。
すると本日読んだ『昭和天皇巡幸』という本に同じ内容の文章が載っていました。
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終戦後の巡幸が「昭和の巡幸」なら、東日本大震災に当たっての被災地への巡幸は「平成の巡幸」と呼ぶにふさわしい。
震災五日後の平成二十二年三月十六日、天皇陛下が、テレビを通じて国民をお励ましになるメッセージを発せられたのは、ポツダム宣言を告げる昭和二十年八月十五日の玉音放送を彷彿とさせるものだった。
これ書いたの誰だと思いますか?
正解は竹田恒泰
はああ、と大きいため息が出ました。
竹田君と言えば「男系絶対派」の人ですね。
そんな自分を奮い立たせるためにこの本にあった昭和天皇エピソードをご紹介します。
300万人もの人々が犠牲になった日本。
占領国アメリカの世論は天皇はヒトラーやムッソリーニと同様に戦争責任があると70%を超えていました。
アメリカ国民の三分の一が天皇処刑に賛成でした。
なんとか天皇制廃止を免れた昭和天皇は昭和21年人間宣言をし、日本各地を視察されました。
巡幸の始まる直前、当時の行幸主務官加藤進氏は昭和天皇から巡幸に対する思いを聞かされました。
今度の戦争で、国の領土を失い、国民のなかに多数の死傷者を出し、たいへんな災厄を受けた。この際、私としてはどうすればいいのかと考えたが、結局、広く地方を歩いて遺家族や引き揚げ者を慰め、励まし、元の姿に返すことが自分の任務であると思う。私の健康とか何とかは全然考えなくてもいい、その志を達するよう全力を挙げてこれを行ってほしい
(引用上記本)
平成と違うところは国民の感情も今と全然違うということです。
共産党も調子に乗っていた時ですから、暗殺される可能性だってあります。
国民に「あんたのせいでこんな風になったんだ」と怒鳴られたり、殴られたりする危険性もあります。
そんな人も昭和天皇は「それも国民だ」と受け入れる覚悟があります。
埼玉の農家を訪問した昭和天皇を21歳の若者はこう感じたそうです。
戦争になったということで責任を感じ、国民の被害状況をご視察や、謝罪のお気持ちがうかがわれ、恐れ多い、という気持ちでいっぱいでしたね。
埼玉にて

千葉県を訪ねた時にはお召列車の中で車中泊もしました。
お風呂どころか寝台だってありません。
それを知った昭和天皇は不満に思うどころか
「戦災の国民のことを考えればなんでもない。十日くらい風呂に入らなくてもかまわぬ」
とお付きの者に言いました。
千葉県にて

感動的な話
鹿児島から去るときのことです。
陛下をお見送りする時のことです。陛下がお車に乗られたとき、それまでおとなしく並んでいた子どもたちが、とび出して陛下をとりまいたんです。陛下はニッコリ笑われながら、子どもたちの頭をなでられました。そうすると、子どもたちは、「ぼくも、ぼくも」と言うんです。陛下は「よしよし」とおうなずきになり、しまいには、両手で子どもたちの頭をなでてくださいました。
鹿児島にて

こういう話を知ると平成の両陛下に心を震わせるものがないのかなんとなくわかります。
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占領された日本。トモダチ作戦された日本。
日本の敗戦を認めた後、ヤンキーが占領するためにやって来た。
昭和天皇は「私はどうなってもいい。国民だけは助けてほしい。」とマッカーサーに言った。
その場で逮捕拘束されて早々に処刑されてもいい状況だった。昭和天皇の覚悟が伝わる。
ヤンキーは食糧をくれた。(小麦パン食の占領でもあった。これで儲けたのが小麦関連会社。ミッチーは粉屋の娘。)
非道な事もしてくれたけれど。
ビデオメッセージ。
今上天皇の覚悟なんて全く感じなかった。
ただ喋っているだけだった。
ヤンキーはトモダチ作戦をしてくれた。
今上の軽さが恐ろしい。