2023.03/23 [Thu]
遂にヘカテーが憧れの地に立つ!!
遂にやっとここに来れました!!!
旧海軍横須賀鎮守府司令長官官舎
(現在 田戸台分庁舎)
説明しよう
なぜヘカテーが行きたい行きたいと思っていたのか?
山屋他人一家が住んでいたからです。
1913年(大正2年)に建設された横須賀鎮守府長官邸には歴代の長官が住んでいました。
山屋は18代目の横須賀鎮守府司令長官で司令長官邸に住んだ7人目の司令長官です
最初に住んだ長官は東伏見宮依仁親王です。
34人の横鎮の司令長官が住んだ長官邸は、太平洋戦争終戦後にアメリカに接収され、1964年まで9人の在日米海軍司令官等が住んでいました。
1969年に防衛庁に移管され、現在は海上自衛隊横須賀地方総監部が管理しています。
(昨日も3人の自衛官が旧長官邸にいました)
毎年桜の時期や演奏会がある時のみ公開される建物なので普段は入れません。
昨年は公開されていると知らなかったので、やっと来ることが出来ましたよ!!
建物はこんな感じです↓
現在も残っている防空壕↓
大正9年8月24日横須賀鎮守府長官となった山屋他人海軍大将
(将官会議議員も兼任してます)
大正9年8月末に山屋一家は東京の麻布本村町から横須賀鎮守府長官邸に引っ越しました。
今までの東京の住まいよりも大きな敷地と優雅な邸宅
長官邸の門の前には門番の水兵がおり、山屋一家が出入りする際には捧げ銃をしていました。
山屋一家が住んでいた頃は小高い丘に建てられた長官邸からは横須賀の市街地と海が遠くまで見えた。
現在ではこんな感じです。
同居していた山屋の父勝壽は「夢でなすべか」と毎日盛岡弁で繰り返すほどだった。
横須賀鎮守府は当時あった横須賀、呉、佐世保、舞鶴の四か所の軍港の中で最も規模が大きく、また東京から近い事もあり海軍にとって最重要な軍港でした。
第一艦隊、聯合艦隊のホームでもあるので山屋にとっても懐かしい場所です。
また山屋がかつて教鞭をとっていた海軍砲術練習所(明治31年4月5日~6月9日 分隊長を兼務)、海軍水雷練習所(明治28年9月28日~? 分隊長を兼任。明治29年4月6日から海軍大学校の学生になっている)は横須賀鎮守府に属した術科学校です。
(注 海軍砲術練習所と海軍水雷練習所は明治40年に「海軍砲術学校」「海軍水雷学校」と名を変えています)
軍港だから外国の軍艦も横須賀にやってきます。
横須賀鎮守府のトップである山屋の元には海外の軍人が表敬訪問をする
大勢の異国の海軍軍人が訪問される時にはガーデンパーティーが長官邸の庭で開かれました。
山屋の妻貞子はしっかり者で若い士官の奥さんや鎮守府から派遣された料理人やお手伝いに指示を出して料理を作った。
パーティーのメニューのラストには当時としては珍しかった西洋菓子が長い銀皿に飾られて振舞った。
しかし当時の横須賀はまだまだ農村風景が至る所に広がる場所で、横須賀鎮守府長官邸もマムシが出る場所として知られていた。山屋は子ども達に「マムシと出会ったとき、かま首をもたげてパッとかかってきたら、足を広げて飛び上がれ」と教え、当時4,5歳だった末っ子の寿々子さんは時々マムシと遭遇した時の為に足を広げて飛び上がる練習をされていたと藤井茂氏の著書『山屋他人』266ページに書かれている。
大正9年12月、海軍長官邸での生活を「夢ではないか」と言っていた山屋の父勝壽はその長官邸で95歳の人生に幕を下ろした(大正時代の95歳だからものすごい長寿です)。
横須賀鎮守府の長官の御父君が亡くなったということで山屋が「自分が死んでもこれだけの葬儀が出来ようか」と冗談を言うほどに盛大な葬儀が行われた。
(山屋が亡くなった時は元大将だったので海軍省が葬儀を行い、葬儀委員長は同郷で直前まで総理だった米内光正が担当し、及川海軍大臣が弔辞を読んでいる。昭和天皇が勅使として内藤政恒侍従を差し遣わし、幣帛や祭資を下賜している。皇太后だった貞明皇后も下賜し、海軍の軍人だった高松宮家と伏見宮家からも花が送られている。)
過去記事 http://retsugaiha.blog.fc2.com/blog-entry-2973.html
大正11年7月 山屋は横須賀鎮守府長官を最後に一線を退いた。
大正11年7月27日に 軍事参議官に就任したが、当時の軍事参議院には取り立てて扱うべき議案は無かったので時たま海軍省や軍令部に出て相談に乗る程度でした。
大正12年4月、57歳の山屋は現役を引退し予備役となった。
・・・・・・と、まあこういう場所なので行きたかったのです。
残念ながら内部は公開されてませんでしたが、こんな感じらしいです↓
ちょろっと山屋の写真が映像に出ましたね↑
長官邸の後に記念艦三笠にも行ってきました
海軍軍人の凱旋記念報告会の写真が展示されてました↓
記念艦三笠には日露戦争時乗船していなかったのでこれしか扱われなかったのが残念です。
もう一つ見てきたのが海軍料亭小松の跡地
東郷平八郎、山本五十六、米内光政そして山屋他人の書があった海軍料亭小松の跡地です。
過去記事 『海軍料亭 小松物語』
行ってみてびっくりしたんだけど小松の隣の建物が消防署(しかもデカい)だった
というわけで昨日の横須賀鎮守府司令長官邸レポは終わります。
昨日は滅茶苦茶いい天気でしたが、本日は土砂降りの神奈川からお届けしました。
≪参考資料≫
会場自衛隊横須賀地方総監部「田戸台分庁舎 【旧横須賀鎮守府司令長官官舎】」(パンフレット)
藤井茂著「いわて人物夜話 第163話」」『盛岡タイムス 2019年5月11日』
藤井茂著「山屋他人」『いわて人物夜話』 2020年5月 新渡戸基金
宮内庁編著『昭和天皇実録 第8巻』 2016年9月 東京書籍
枝栄会編著『謙譲の人 : 海将山屋他人の足跡』 2003年4月 枝栄会
財団法人海軍歴史保存会編 『日本海軍史9 将官履歴(上)』 1995年11月 第一法規出版
藤井茂著『山屋他人 : ある海軍大将の生涯』 1994年4月 盛岡タイムス社
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旧海軍横須賀鎮守府司令長官官舎
— 列外派星くず日記のヘカテー (@vRwwdj1j9AEpcH4) March 23, 2023
(現在 田戸台分庁舎)
説明しよう
なぜヘカテーが行きたい行きたいと思っていたのか?
山屋他人一家が住んでいたからです。
1913年(大正2年)に建設された横須賀鎮守府長官邸には歴代の長官が住んでいました。
山屋は18代目の横須賀鎮守府司令長官で司令長官邸に住んだ7人目の司令長官です
最初に住んだ長官は東伏見宮依仁親王です。
34人の横鎮の司令長官が住んだ長官邸は、太平洋戦争終戦後にアメリカに接収され、1964年まで9人の在日米海軍司令官等が住んでいました。
1969年に防衛庁に移管され、現在は海上自衛隊横須賀地方総監部が管理しています。
(昨日も3人の自衛官が旧長官邸にいました)
毎年桜の時期や演奏会がある時のみ公開される建物なので普段は入れません。
昨年は公開されていると知らなかったので、やっと来ることが出来ましたよ!!
建物はこんな感じです↓
— 列外派星くず日記のヘカテー (@vRwwdj1j9AEpcH4) March 23, 2023
— 列外派星くず日記のヘカテー (@vRwwdj1j9AEpcH4) March 23, 2023
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現在も残っている防空壕↓
— 列外派星くず日記のヘカテー (@vRwwdj1j9AEpcH4) March 23, 2023
大正9年8月24日横須賀鎮守府長官となった山屋他人海軍大将
(将官会議議員も兼任してます)
大正9年8月末に山屋一家は東京の麻布本村町から横須賀鎮守府長官邸に引っ越しました。
今までの東京の住まいよりも大きな敷地と優雅な邸宅
長官邸の門の前には門番の水兵がおり、山屋一家が出入りする際には捧げ銃をしていました。
山屋一家が住んでいた頃は小高い丘に建てられた長官邸からは横須賀の市街地と海が遠くまで見えた。
現在ではこんな感じです。
— 列外派星くず日記のヘカテー (@vRwwdj1j9AEpcH4) March 23, 2023
同居していた山屋の父勝壽は「夢でなすべか」と毎日盛岡弁で繰り返すほどだった。
横須賀鎮守府は当時あった横須賀、呉、佐世保、舞鶴の四か所の軍港の中で最も規模が大きく、また東京から近い事もあり海軍にとって最重要な軍港でした。
第一艦隊、聯合艦隊のホームでもあるので山屋にとっても懐かしい場所です。
また山屋がかつて教鞭をとっていた海軍砲術練習所(明治31年4月5日~6月9日 分隊長を兼務)、海軍水雷練習所(明治28年9月28日~? 分隊長を兼任。明治29年4月6日から海軍大学校の学生になっている)は横須賀鎮守府に属した術科学校です。
(注 海軍砲術練習所と海軍水雷練習所は明治40年に「海軍砲術学校」「海軍水雷学校」と名を変えています)
軍港だから外国の軍艦も横須賀にやってきます。
横須賀鎮守府のトップである山屋の元には海外の軍人が表敬訪問をする
大勢の異国の海軍軍人が訪問される時にはガーデンパーティーが長官邸の庭で開かれました。
山屋の妻貞子はしっかり者で若い士官の奥さんや鎮守府から派遣された料理人やお手伝いに指示を出して料理を作った。
パーティーのメニューのラストには当時としては珍しかった西洋菓子が長い銀皿に飾られて振舞った。
しかし当時の横須賀はまだまだ農村風景が至る所に広がる場所で、横須賀鎮守府長官邸もマムシが出る場所として知られていた。山屋は子ども達に「マムシと出会ったとき、かま首をもたげてパッとかかってきたら、足を広げて飛び上がれ」と教え、当時4,5歳だった末っ子の寿々子さんは時々マムシと遭遇した時の為に足を広げて飛び上がる練習をされていたと藤井茂氏の著書『山屋他人』266ページに書かれている。
大正9年12月、海軍長官邸での生活を「夢ではないか」と言っていた山屋の父勝壽はその長官邸で95歳の人生に幕を下ろした(大正時代の95歳だからものすごい長寿です)。
横須賀鎮守府の長官の御父君が亡くなったということで山屋が「自分が死んでもこれだけの葬儀が出来ようか」と冗談を言うほどに盛大な葬儀が行われた。
(山屋が亡くなった時は元大将だったので海軍省が葬儀を行い、葬儀委員長は同郷で直前まで総理だった米内光正が担当し、及川海軍大臣が弔辞を読んでいる。昭和天皇が勅使として内藤政恒侍従を差し遣わし、幣帛や祭資を下賜している。皇太后だった貞明皇后も下賜し、海軍の軍人だった高松宮家と伏見宮家からも花が送られている。)
過去記事 http://retsugaiha.blog.fc2.com/blog-entry-2973.html
大正11年7月 山屋は横須賀鎮守府長官を最後に一線を退いた。
大正11年7月27日に 軍事参議官に就任したが、当時の軍事参議院には取り立てて扱うべき議案は無かったので時たま海軍省や軍令部に出て相談に乗る程度でした。
大正12年4月、57歳の山屋は現役を引退し予備役となった。
・・・・・・と、まあこういう場所なので行きたかったのです。
残念ながら内部は公開されてませんでしたが、こんな感じらしいです↓
ちょろっと山屋の写真が映像に出ましたね↑
長官邸の後に記念艦三笠にも行ってきました
— 列外派星くず日記のヘカテー (@vRwwdj1j9AEpcH4) March 23, 2023
海軍軍人の凱旋記念報告会の写真が展示されてました↓
— 列外派星くず日記のヘカテー (@vRwwdj1j9AEpcH4) March 23, 2023
— 列外派星くず日記のヘカテー (@vRwwdj1j9AEpcH4) March 23, 2023
記念艦三笠には日露戦争時乗船していなかったのでこれしか扱われなかったのが残念です。
もう一つ見てきたのが海軍料亭小松の跡地
— 列外派星くず日記のヘカテー (@vRwwdj1j9AEpcH4) March 23, 2023
— 列外派星くず日記のヘカテー (@vRwwdj1j9AEpcH4) March 23, 2023
東郷平八郎、山本五十六、米内光政そして山屋他人の書があった海軍料亭小松の跡地です。
過去記事 『海軍料亭 小松物語』
行ってみてびっくりしたんだけど小松の隣の建物が消防署(しかもデカい)だった
というわけで昨日の横須賀鎮守府司令長官邸レポは終わります。
昨日は滅茶苦茶いい天気でしたが、本日は土砂降りの神奈川からお届けしました。
≪参考資料≫
会場自衛隊横須賀地方総監部「田戸台分庁舎 【旧横須賀鎮守府司令長官官舎】」(パンフレット)
藤井茂著「いわて人物夜話 第163話」」『盛岡タイムス 2019年5月11日』
藤井茂著「山屋他人」『いわて人物夜話』 2020年5月 新渡戸基金
宮内庁編著『昭和天皇実録 第8巻』 2016年9月 東京書籍
枝栄会編著『謙譲の人 : 海将山屋他人の足跡』 2003年4月 枝栄会
財団法人海軍歴史保存会編 『日本海軍史9 将官履歴(上)』 1995年11月 第一法規出版
藤井茂著『山屋他人 : ある海軍大将の生涯』 1994年4月 盛岡タイムス社
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血筋は大切だけど
問題だったのは、彼女らが「自らを省み、人に教えを請い、自らを高めるために日々努力を怠らない女性」ではなかったことに加え、「一族郎党、皇室をカネと権力の象徴と勘違いした輩」だったことだと思います。
高貴なる一族であっても平成老人のような小男が生まれることはありますし、卑しい出自とされる方であっても、努力で周囲に認められる方もいるでしょう。
でも、暫定妻と平成老婆はそうではなかった。彼女らが素晴らしい女性であれば、「粉屋の娘」のように親の職でアレコレ言われ嫌な思いをしてきた方々、卑しい出自とされる方々の希望の光となったでしょうに。
程度の低い存在にしかなれなかったから、却って「出自が問題だから」と、より血統重視の考えを広めてしまった感があります。
暫定妻の出身地の方々は、ネットで散々に言われ憤慨しているでしょうね。「あいつのせいで私達まで蔑まれる」と。国内の隅々までに嫌悪と怨嗟を染み渡らせる存在が、ジキテンノー家など片腹痛いです。皇室典範早急改定による敬宮殿下立太子を望みます。