昭和58年で言われていた「開かれた皇室は失敗だった」

『河出人物読本 天皇裕仁』という本を古本屋から買ってきました。

天皇裕仁 (1983年) (河出人物読本)天皇裕仁 (1983年) (河出人物読本)
(1983/04)
不明

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そこにこんなことが書かれていました。

「日英比較「皇室論」戦後天皇家の演出」
著者 筑波常治 早稲田大学助教授


小泉さんは、イギリスの王室を手本にして日本の天皇家を演出しようとしました。イギリス国王と天皇とでは、前述したようにそれぞれの歴史に由来する正確に根本的な差があるにもかかわらず、です。その結果、天皇一家の生活が、いかに庶民的であるか、というキャンペーンばかり、あきずにくり返されることになりました。


(ヘカテ―注 小泉さんとは小泉信三のことです。美智子さまを皇太子妃にすることに大きな役割を果たした人です。)

筑波先生曰く

イギリスの王室・・・貴族が自分たちの領地の村人とダンスをしたりと一見すると庶民的。しかし、イギリスはその絶対的な階級社会によって上流と一般庶民が厳格に分けられている。上流階級には絶大な実力があるため、庶民的な行動をしても権威は傷つけられることはない。

日本の皇室・・・天皇と上流階級に庶民と一緒に何かするということが伝統的になかった。天皇や貴族階級に実力の裏付けというものがない。したがって、天皇の存在意義は、世俗的な実力とは別の形の権威に、求めなければならなかった。


イギリスと日本では王室の性質が異なっていた。
それを小泉信三は分かっていなかった。

筑波先生はこう記しています。

しかるに、最近の小泉流の演出による”人間天皇一家”は、一般の民衆と同じだという宣伝ばかりさかんです。
「皇太子さまはコッペパンにマーガリンをつけて召し上がってます」
といったようなことばかり。これをつきつめると何の取り柄もない一家が、お城のなかに住んでいるということにしかなりません。女性向け週刊誌のグラビアだって「平民」出身の妃が若くて、御子たちが幼くって可愛らしい間だけでしょう。
物珍しさも手伝っての一時的人気を、民衆の親愛感が定着した証拠ととり違えるとすれば、天皇一家にとって危険なことです。私は小泉さんの演出を、天皇家自身にとっては、失敗だったと考えざるを得ません。



『天皇裕仁』は初版昭和58年4月
新装出版されたのが昭和63年8月。



皆様、どう思いますか。

昭和58年と言ったらヘカテ―はまだ生まれていません。

そんな時から開かれた皇室は失敗と評価されていたのです。

筑波先生が失敗だったと考えられた「開かれた皇室」

開かれた皇室のシンボルであった昭和の皇太子一家

それがそのまま天皇皇后になりました。

その結果が平成の皇室の現状です。

これをつきつめると何の取り柄もない一家が、お城のなかに住んでいるということにしかなりません。

重い。重すぎる。

まさに、今の平成4人組のことです。

そして、

>女性向け週刊誌のグラビアだって「平民」出身の妃が若くて、御子たちが幼くって可愛らしい間だけでしょう。

女性アイドルと一緒です。

昭和の皇太子妃は確かにアイドルでした。

老いたら取り上げなくなることははっきりしています。

しかし、昭和のアイドルは平成の女詐欺師へと脱皮しました。

「国民騙して半世紀」の大詐欺師は華やかなスポットライトを若い嫁に譲りません。

実弾飛ばす力技で今も老醜な姿を女性週刊誌に掲載させています。



昭和は「戦後の皇室の姿は失敗だった」と言える自由がありました。

平成は言論統制されています。

「平成天皇美智子皇后は失敗だった」と書けるようになる日はいつの日か
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No title

筑波常治先生は父上の代に臣籍降下された、もと皇族のお家柄。

先生ご本人は、日本農業技術史や自然科学史を専門とされる堅実な学者さんでした。

もと皇族のお家柄だからこそ、この筑波先生のご指摘は的確でした。

>物珍しさも手伝っての一時的人気を、民衆の親愛感が定着した証拠ととり違えるとすれば、天皇一家にとって危険なことです。私は小泉さんの演出を、天皇家自身にとっては、失敗だったと考えざるを得ません。

平成皇室(但し両ヘーカとヒットーミヤケ限定)は完全に、「物珍しさも手伝っての一時的人気を、民衆の親愛感が定着した証拠と取り違える」方向に突き進んでいますね(嘆)

No title

今の天皇明仁は帝王学を学んでいないのでは。


今の天皇明仁は皇太子だった時に、
「わたしは家庭というものを知らない。
わたしは幼い頃に両親である両陛下から引き離されて育った。
疎開先でも両親である両陛下は訪れてくれなかった。
親子が一緒に住むという普通の家庭を、温かい家庭を持つまでは、わたしは死ねない。」
と言っていた。

学友も
「僕達が親子喧嘩の話などをしていると、継宮明仁は淋しそうな顔をしたり、そういう事をするのが親子なんだと驚くので、そのうち僕達は継宮明仁の前では家族の話をしなくなった。」
と話している。

こういう事実や証言から推察するに、今の天皇は、父帝である昭和天皇から引き離されて育っているので、父帝である昭和天皇から帝王学というものを学んでいないと考えられるし、そう断定してよかろう。

皇太子明仁と皇太子妃美智子は毎週のように浩宮徳仁親王を連れて昭和天皇と香淳皇后のもとに参内したと言われているので、浩宮徳仁親王つまり今の皇太子徳仁は昭和天皇から帝王学を幼い時から学んでいると断定してよかろう。

これらの事実から分かることは。
継宮明仁は幼い頃から父帝から帝王学を学んでいない。
浩宮徳仁は幼い頃から天皇裕仁(昭和天皇)から帝王学を学んでいる。

だから、昭和を知る日本国民にしてみれば、昭和から皇室を見続けている日本国民にしてみれば、平成の天皇には違和感を抱き、皇太子徳仁にこそ本当の皇室を感じるのだろう。

そして今、敬宮愛子内親王にも昭和天皇と香淳皇后を感じる。
徳仁天皇の即位と敬宮の立太子を望むのは、昭和から皇室を見続けている日本国民にとって不思議なことではあるまい。


昭和のお妃選びの失敗

ずっと昔『海軍主計大尉小泉信吉』を読んで、小泉信三さんはとても立派な方で、なされることにに間違いはないと信じていました。

でも、そうではなかったみたいですね。

東宮応援サイトを読ませていただいているうちに、長い間の洗脳が解けていきます。

あの黒木侍従もお妃選びのメンバーのひとりだったのですね。

No title

大変興味深く、考えさせられました。
確かによくよく考えてみると、「ナルちゃん憲法」にせよ、自炊甩キッチンでのエプロンを付けた写真にせよ、そこまで具体的に発表(見せる)する必要があったのかと。礼宮以後の御子育てに、「ナルちゃん憲法」のナの字も出てこなかったのを、いつも疑問に思っておりました。帝王教育甩育児法にも見えなかったので。料理も一体どれだけなさったのか。皇室内に新しい風を起こされたのか、ただの振りでおわっのかは、存じませんが、そのためにマスコミを味方につけようとされていたようにも、思われますね。何か空恐ろしい発想ですが。

開かれ過ぎた皇室

戦後の天皇家のあり方を、「週刊誌天皇制」と皮肉って揶揄したのは、三島由紀夫でした。
(三島は、美智子さんと小料理屋の2階でお見合いをしましたが、一瞥のもとに断り、著名画家の令嬢と結婚しています。)

三島は、戦後に始まり現在も続く園遊会について、宮内官僚の演出で皇族を俳優あつかいした週刊誌天皇制の実体だ、と話しています(「恐るべき昭和天皇」松本健一著より)。
この園遊会、始まった当時、他の知識人たちからもかなり批判があったようです。

さて、平成に入ってすぐに、礼宮と川嶋紀子さんの結婚が決まった時には、「開かれ過ぎた皇室」とささやかれました。

婚約の報が流れた数日後、非常に粗末な自宅を下着(ステテコ)姿でうろうろする紀子さんの母方祖父のテレビのインタビュー映像には、さすがに驚愕し唖然としました。
今振り返ると、テレビ局もよく放送したものだと思います。
当時の映像は、今やどこを探してもみつかりません。

紀子さんの自宅の様子や生活環境がわかるにつれて、「うちの方がよっぽどマシなんじゃない?」という陰口も結構ありましたよ。

戦後の日本は高度経済成長で豊かになり、尚且つ比較的平等な社会で、昭和の頃は「一億総中流」とよく言われてました。
礼宮結婚とちょうど同じ年、ソビエトが崩壊しベルリンの壁も無くなり、社会主義国が次々に潰れていきましたが、そうした中、「最も社会主義が成功したのは実は日本だった」、なんていう言説もよく聞かれました。

しかし平等といっても、大半の国民はそれがある種の建前であり、そもそも人間は経済的にも、学歴、容姿、才能、家柄、どれをとっても決して同じではないことぐらいわかっていました。
ところが、そうしたスローガン的建前を真に受けてしまった人たちがいたんですね、それがあろうことか天皇と皇后でした。
そして、川島夫妻もかなり左寄りの思想を隠さないご夫婦でしたね。
今にして思えば、礼宮の結婚は、皇室にとってある種の革命だったのかもしれません。

一応、慶事と言うことで、この結婚に対してマスコミはお祝いムードではありましたが、週刊誌の一部では、一部の皇族や当時の宮内庁が大反対とか、辛辣な見出しもありました。

ただ、あの頃って、バブル絶頂期だったんですよ。
だから、「ま、いいんじゃない?」と、フワフワした浮かれた空気に流されてしまったんですね。
当時の雰囲気って、なかなかうまく説明できませんが、とにかく景気がよくって、土地や株の価格がどんどん上がって、日本が世界で一番金持ちだと言われていて、国全体が浮わついてました。

だから、次男である礼宮の結婚の重大性を真剣に考えなかったんですね。

今や、天皇皇后と秋篠宮一家は、わざわざ庶民的に見せる必要すらなくなり、むしろ、「一般の国民より低レベルなんだから、あまり出てこないほうがいいんじゃない?」「あまりにも威厳なさすぎ」と言われるまでになってしまいました。

いくらなんでも、油断しすぎましたよ。

昭和天皇のお名前

昭和天皇のお名前『裕仁』様の文字を見て
今更ながらあっ!と思いました。
一昨年亡くなった私の父の名前にその一文字「裕」が使われていたからです。
私の祖父にあたる父のお父さんは職業軍人で陸軍の少佐だった人です。
戦時中、日本の軍隊は皇軍とよばれていて天皇陛下(裕仁天皇)が大元帥だったときいております。
父は7人兄弟の3番目の長男でやっと授かった男の子だったので、祖父は天皇陛下のお名前の一文字を名前に付けたのでしょう。
祖父は私が生まれる前に亡くなっていますし、父とも皇室の話をしたことはありませんが、生きていたら聞いてみたかったです。
そういえばわたしの父は歴代の天皇(神武〜今上)をそらんじていました。記憶力が自慢?なのか百人一首もすべて暗誦していたようです。
父方の祖母に会った時に「●●ちゃん(私の事)は浩宮様と同い年だね。」と言われた事も思い出しました。

No title

女性自身  1989年 9月6日号
■ 反対だらけだった礼宮の結婚


週刊新潮  1989年 9月7日号
■ 礼宮の「ご婚約発表」のあと
平民化に拍車がかかる「新皇室像」
皇籍「離脱」で抵抗した成果


週刊ポスト 1990年 7月13日号
■ 礼宮結婚フィーバー 日本はこれでいいのか!
「奉祝押しつけ」の大騒ぎ報道を排す
沸騰皇室核心論議
右と左と知識人のミカドの症状




昭和58年すでに「開かれた皇室は失敗」と言われ、昭和天皇の喪中にもかかわらず婚約を許した今上と、婚約発表をした文仁と川島紀子によって、平成皇室は庶民以下となり完全に凋落したと言ってよいのではないでしょうか。

プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@excite.co.jp

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