山田風太郎先生の著書『同日同刻』から見る昭和20年8月15日の著名人の様子

本日は終戦記念日です。

というわけで太平洋戦争の開戦日と終戦日の動きを追った山田風太郎先生の『同日同刻』を紹介します。

皆様は一度や二度、「列外派星くず日記の「列外派」って何?」と疑問に思ったことがあるでしょう。

山田風太郎先生の著書『戦中派〇〇日記シリーズ』から「列外派」そして「戦中派虫けら日記」から「星くず」と名付けました

「列外」、山田作品を読む上でのキーワードになります。

ウィキより
山田風太郎作品にほぼ全て共通する、一歩引いた視点からの人間や歴史への視点は、幼少時の両親との死別、そして多感な青春時代に起こった太平洋戦争(大東亜戦争)により型作られた。特に徴兵検査で体格不適格で丙種合格となり、「列外の者」とされたことは、彼の内面に「社会から疎外された者」としての意識を形成することになったと自ら語っている。

中学生時代痩せていた山田先生は健康にも関わらず、「皆の邪魔になるから」と言う理由で「山田列外へ!」と授業を見学させられました。

一歩引いた視点から皇室を見るというヘカテ―の思いが込められています。

ちなみにこの『同日同刻』がニュースになっていました。

山田風太郎「同日同刻」の創作ノート24冊を初公開 兵庫・養父
産経新聞 8月15日(土)7時55分配信
養父市関宮出身の小説家、山田風太郎(1922~2001年)を顕彰する地元の「山田風太郎記念館」で、風太郎が太平洋戦争を記録した「同日同刻」の創作ノート全24冊が初公開されている。今年の風太郎の追悼式典「風々忌」で、「同日同刻」をテーマに記念講演した山梨県立文学館長で、歌人の三枝昴之さんは「ノートの克明な記録から、風太郎が戦争の事実を伝えるという執念が伝わってくる」と話した。
「同日同刻」は、風太郎が57歳の昭和54年に刊行された。太平洋戦争が開戦した「昭和16年12月8日」と、終戦にいたる「20年8月1日から15日」を、当時の人々が何を考え、どう行動したのかを膨大な記録からまとめ、ノンフィクション作品としての評価が高い。
創作ノートは、開戦の年の16年1月1日から始まり、「敗戦後」の21年ごろまでの出来事を大学ノート(80~100ページ)に、細かな字で詳細に記録している。ノートの表紙には「一冊あたり原稿にして約250枚見当」と書いている。
また、ノートの表題は「同日同刻物語」とあり、風太郎は当初、太平洋戦争の全体をまとめる意図があったとみられる。
風太郎は「同日同刻」を執筆するため、東京・多摩市の自宅2階にある書庫とは別に、使わなくなった1階の子供部屋(約6畳)を太平洋戦争関連の資料でいっぱいにした。
この部屋に「東京裁判」や「昭和史の天皇」などの書籍や文人の日記、雑誌、新聞の切り抜きなどの資料が並んだ。風太郎はいろいろな戦史の文献、日記などから事実のみを検証し、ノートに抜粋して、改めて客観的にまとめた。
子供部屋を見た「山田風太郎の会」の有本倶子さんは「風太郎さんは、太平洋戦争に関するあらゆる資料を集め、その資料をすべて読んだそうです」という。
「同日同刻」を参考に、短歌の評論集「昭和短歌の精神史」をまとめ、斎藤茂吉短歌文学賞などを受賞した三枝さんは「(同日同刻は)自分の価値観をゼロにして、記録に徹した貴重な資料といえる」と話した。
 山田風太郎記念館は午前9時~午後5時(月曜日休館)。大人200円、小・中学生100円。問い合わせは同記念館(電)079・663・5522。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150815-00000039-san-l28

ちなみにヘカテ―はこの山田風太郎記念館に行ったことがあります。

玉音放送を聞き、敗戦を知った著名人の様子
(以下『同日同刻』より引用)

①徳川無声
「これより、畏くも天皇陛下の御放送であります。謹んで拝しまするよう」
夢声は、妻と娘と畳の上で直立不動の姿勢をとった。
君が代の奏楽が流れ出した。「この国家、曲が作られてこの方、こんな悲しい時に奏されたことはあるまし。私は全身にその節調が、大いなる悲しみの波となって浸みわたるのを感じた」
玉音が聞え始めた。
何という清らかな御声であるか。足元の畳に、大きな音をたてて、夢声の涙が落ちていった。
聴いているうちに、直感的に彼は感じた。
「斯くの如き君が、またとあろうか。日本敗るるの時、この天子を戴いていたことは、なんたる幸福であったろうか。歴代の天皇の中で、これほどヨキ人はなかったに違いない。―この佳き国は永遠に滅びない!」

②高村光太郎
高村光太郎はのどの裂けるばかりに悲歌を歌った。
「綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎神社社務所の畳に両手つきて
天井はるかに流れ来る
玉音の低きとどろきに五体うなる
五体わななきてとどめあえず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく宸極に向ってひれ伏せるを知る
微臣恐懼ほとんど失語す」

③徳富蘇峰
八十三歳の徳富蘇峰は、富士山麓双宜荘で「近世日本国民史」第九十七巻「熊本城攻守篇」を執筆中であったが、この日、文中に書き入れた。
「昭和二十年八月十五日は、実に我が皇国日本に取りて、永久に記念すべき悪日である」

④内田百閒
内田百閒は書いた
「熱涙垂れて止まず。この滂沱の涙はどう云う涙かと云う事を、自分で考えることが出来なかった」

⑤高見順
「ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれと仰有ったら、みんな死ぬわね」と高見順の妻が言った。高見も同感だった。
「―遂に敗けたのだ。戦いに敗れたのだ。夏の太陽はカッカと燃えている、眼に痛い光線。列日の下に敗戦を知らされた。蝉がしきりに鳴いている。音はそれだけだ。静かだ」

⑥山田風太郎先生
學校とともに信州飯田に疎開していた医学生山田風太郎は、町の大食堂でこの放送を聞いた。
「みな凝然と佇立したまま動かない。・・・・・・冷え冷えとする町の大衆食堂の中に、四人の学生は茫然と、うつろな眼を入口の眩い日光にむけ、主人は端座して唇をかみ、おかみさんは脅えたような眼を天井に投げ、娘は首を垂れ、両腕をだらりと下げたまま立ちすくんでいる。・・・・・・
『どうなの?宣戦布告でしょう?どんなの?』
と、おばさんがかすれた声でいった。訴えるような瞳であった。
『済んだ』
と、僕はいった。
『おばさん、日本は負けたんだ』
「く、口惜しい!』
一声叫んでおばさんは急にがばと前へうつ伏した。はげしい嗚咽の声が、そのふるえる肩の下から洩れている。みな死のごとく沈黙している。ほとんど凄惨ともいうべき数分間であった。

⑦斎藤茂吉
「たえしのびこらえしのびて滅びざる命遂げむときおいたてまつる」

⑧釈超空
「戦いに果てしわが子も聴けと思う かなしき御詔うけたまるなり」

⑨高浜虚子
「秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみぞ」

⑩荻原井泉水
「ああ秋日面に厳し泣くべきものか」

⑪久保田万太郎
「何もかもあっけらかんと西日中」

久保田万太郎が一人皆と違いますね。

今から70年前の8月15日のことでした。
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ヘカテー様は芹沢光治良さんを知っておられますか?

芹沢氏、終生、文壇(文藝春秋社の流れを組む日本文藝協会)から距離を置いた人でした。自身は日本ペンクラブ創立に深く関わり、戦争中は軍の徴用作家になることを拒否した数少ない作家であったのです。つまり反戦作家だったのです。
ヘカテー様はご存知かな?「巴里に死す」の著者です。余り話題に上らない作家ですが、戦前の数少ない官僚出身作家の一人です。
又、あのベアテ・シロタ・ゴードンさんの父親のレオ・シロタ氏と個人的な親交があった方でもありました。

その芹沢氏が昭和16年から昭和23年に掛けて書いた日記が、今し年の3月に出版されました。
「芹沢光治良戦中戦後日記」という題名です。医学生だった山田風太郎氏の日記とは違った戦中戦後の実情を知る事が出来ますよ。
http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&cPath=4_5&products_id=100447

プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@excite.co.jp

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