昭和20年8月15日のエンペラーとクラウンプリンス

終戦の日の昭和天皇の様子も『同日同刻』に記されています。

昭和天皇は玉音放送をどのように聞いていたのでしょうか?

そして天皇もまた自分の放送を聞いた。
天皇はお文庫から百メートルほど離れた望岳台の地下にある四周を鉄でかためた大金庫室を防空壕としていた。扉も厚さ六、七十センチある鉄扉であった。この日、午前十一時五十五分ごろ、天皇はここに入って来た。
侍従職警衛内舎人高橋英は書く。
「陛下は正面の机の上に軍帽と白い手袋をおかれ、その後ろの方に入口まで重臣と侍従武官長、侍従長たちが立っておられた。
そこにおいでの陛下の録音を、ラジオを通じて拝聴するうち、次第に陪庁舎たちはみなすすり泣きをはじめ、流れる涙も拭きかねている態であった。陛下御自身も悲痛極まりない御風情で、後方をお向きになっていらっしゃるのでさだかではないが、涙を流されておいでのようで、ポケットからハンカチをお探しのようになされたが、もどかしくついに机の上の白手袋をもって顔をお拭きになった御様子に、並いるものの多くが声を出して泣くのであった」
中にも廊下に詰めていた一人枢密院議長平沼騏一郎が、長いからだを二つに折るようにして、白い髪を乱してむせび泣いているのが印象的であった。
ついてながら高橋英はつけ加える。
「ところが、われわれ侍従職警衛内舎人の中からも、詔勅を拝して二時間後には、自分自身のものをまとめて逃げ出したものが二、三人いたことは、残念ながら事実である。


戦中の宮内庁の人間ですよね。
だったら華族やそれ相応の地位にいる人たちです。
そんな人が逃げちゃうのか
まあ、明日どうなるのかわからないから仕方がないのですが

東京から疎開していた継宮明仁親王こと今上陛下はどんな様子だったかも書いてあります。

奥日光湯元の南間ホテル別館に、六十人の学友、百人の少年兵、二百四十人の儀杖隊、近衛師団の一個大隊、戦車一個中隊に護られて疎開していた十歳七か月の皇太子も、居間でラジオに向い、正座して父陛下の放送を聞いた。陪聴していた穂積東宮大夫、二人の御用掛、六人の侍従、一人の侍医はたがいに抱き合って、声をあげて泣き出したが、皇太子は毅然として、一心に聞いていた。
詔勅の文章が大変難しいものだったので、やがて気を取り直した穂積東宮大夫が、こんこんと、かんで含めるように説明しはじめた。


これだけ読むと、「うわー、継宮さんったら自分の父親の言葉もわかんなかったんだー(笑)」となりそうですが、ヘカテ―の亡くなった祖母も「天皇陛下の言葉は何言ってるのかわからなかった」と生前話していました。

当時の録音技術と放送技術、そしてラジオ本体の技術のレベル。

まあ、はっきり言って悪い環境ですね。

さらに昭和天皇のお言葉も庶民や子どもには難しい熟語が使われていたからますますわからなかった。

玉音放送の後に君が代がまた流れて、そのあとで「今の玉音放送はこれこれこういう内容で、日本は負けました。」と補足的なことをアナウンサーが放送したのです。

それで、国民は日本の敗戦を知ったのです。
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8月15日は求婚記念日?

終戦記念日の今日、戦争で命を落とした人々に改めて哀悼の意を捧げます。
8月15日といえば、今の天皇(当時の皇太子)が美智子さんに求婚した日と言われていますね。終戦記念日にプロポーズですよ。「お慎みの日」ではないんでしょうか。そして、今の天皇皇后を必要以上に崇拝し、東宮ご一家を叩いている連中の中に「8月15日プロポーズ」の件を知っている人が果たしてどれくらいいるか。

皇太子夫妻時代、この時期に長期にわたって軽井沢で静養しまくっていたことも「無かったこと」にされていますし、今の天皇皇后の「私たちは戦争で亡くなった人々のために祈りを捧げ平和を祈願してます、8月15日はお慎みの日としてます」的な態度がちょっと白々しく見えてしまうのです。
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ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@excite.co.jp

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