三笠宮さま「墓所五十日祭の儀」



三笠宮崇仁さま「墓所五十日祭の儀」行われる

フジテレビ系(FNN) 12/15(木) 23:51配信
三笠宮崇仁さまが亡くなられて50日目となる15日、三笠宮さまを悼む儀式が行われた。
この日行われた「墓所五十日祭の儀」には、妃殿下の百合子さま、常陸宮妃華子さまをはじめとする皇族方のほか、元皇族や親族など48人が参列された。
両陛下の勅使に続き、百合子さまは、車いすから立ち上がって玉串をささげ、拝礼をされた。
その後、華子さまなど皇族方も、1人づつお墓の前に進み、拝礼をされた。
三笠宮さまは、10月27日に、心不全のため100歳で亡くなられ、皇室の伝統にのっとり、10日ごとに儀式が行われてきた。
次の百日祭の儀は、2017年2月に行われる。.
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20161215-00000705-fnn-soci

皇太子ご夫妻がご参列してないと下郎下女どもは叩いてますが

秋篠宮家もいねーぞ

皇太子ご夫妻は内廷皇族だからご参列されないのかもしれませんが、

筆頭宮家である秋篠宮家はどうした!

これかな?

両殿下、眞子内親王殿下 賢所賢所御神楽の儀

祭祀に出るからか?

三笠宮さまのお言葉
「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。」

三笠宮さまのご葬儀





喪主代理は彬子さまが務められました。

気付いちゃったんだけど

信子さまが斂葬の儀の会場にいらっしゃらないんですよね。

どうなさったんだろう?

あれま!三笠宮さまも女帝OKだったのか!

『皇居の落書き』さまのこちらの記事を拝読

女帝を認める三笠宮文書

≪引用はじめ≫
皇位継承の在り方の問題については,平成17年当時の仁親王殿下の活発な言動により,三笠宮家の方々は男系継承重視という印象が非常に強いのであるが,「週刊新潮」平成15年8月14日・21日号に,興味深い記事が掲載されている。
「「三笠宮」が書かれた幻の「女帝容認論」」と題する森暢平氏の記事である。
内容は,「表紙には「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」との題名,「昭和二十一年十一月三日 新憲法公布記念日」の日付と,「三笠宮」の著者名が書かれている」という文書を森暢平氏が見つけて,それを紹介するというものであるのだが,歴史というものの面白さを感じさせられる。

この文書において,当時の三笠宮殿下は,政府の皇室典範改正法案を批判する文書を枢密院に提出したということなのであるけれども,例えば,以下のような記載がある。
----引用開始----
「従来の皇族に対する性教育はなつて居なかった。さうしていざとなつてから宛も種馬か種牛を交配する様に本人同志の情愛には全く無関心で家柄とか成績とかが無難で関係者に批難の矢の向かない様な人を無理に押しつけたものである。之が為どんなに若い純情な皇族が人知れず血の涙を流し,果は生死の境をさ迷ふたことであらうか?」
----引用終了----

実に,人間的な叫びというべきであろう。

また,皇族男子の婚姻について皇室会議の議を経ることとする仕組みについて,以下のように述べられている。
----引用開始----
「私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申し込む。(略)新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である」
----引用終了----

制度の側の理屈はあるとしても,「皇族の人格に対する侮辱である」という主張は,正論であるというべきであろう。

また,女帝についても,興味深い記載がある。森暢平氏のコメントと併せて引用すると,以下の通りである。
----引用開始----
一方,女帝については,「現在としては政府案で結構と考へる」と女性天皇を認めない政府方針を一応,承認し,女帝反対の立場をとっている。しかし,伝統と歴史を論拠にする政府の考え方とは大きく異なり,当時の女性皇族のあり方を基に論じているところが興味深い。
三笠宮さまは述べている。
「今の女子皇族は自主独立的でなく男子皇族の後に唯追随する様にしつけられてゐる。之は決して御本人の罪ではなく周囲が悪いのであるが之では仮令象徴でも今急に全国民の矢表に立たれるのは不可能でもあり全くお気の毒でもある」。
明記は避けているが,現在の天皇陛下の姉と妹で当時皇室に残っていた孝宮,順宮,清宮の三内親王を想定した記述だろう。この時,十七~七歳だった三方は,皇居内の呉竹寮と呼ばれる建物で,お嫁入りの準備のための教育を受けていた。三笠宮さまは,帝王教育も受けない内親王が皇位に就くのは現状では無理と論じているのだ。
しかし,だからと言って女帝を完全否定したわけではない。「今や婦人代議士も出るし将来女の大臣が出るのは必定であつて内閣総理大臣にも女子がたまにはなる様な時代になり,一方今後男女共学の教育を受けた女子皇族が母となつて教育された女子皇族の時代になれば女子皇族の個性も男子皇族とだんだん接近して来るであらうからその時代になれば今一応女帝の問題も再研(検)討せられて然るべきかと考へられる」と宮さまは続ける。
----引用終了----

この三笠宮殿下の文書は,「仮令一人でもこんな考への人が居るといふことも亦事実であるから或は陛下なり宮内官なりからお叱りをうけるかも知れないが夫は覚悟の前で頭にあることだけは述べねば気がすまぬ・・・」とまで書かれており,相当な覚悟において提出されたものであったようだ。

この文書は,当時の政府に黙殺されたようであるけれども,改めて読んでみると,実に新鮮であり,それでいて,極々当然の人間としての叫びなのである。

かなり古い文書ではあるが,当時三笠宮殿下は30歳でおられたのであるから,立派な一人前の皇族の精一杯の覚悟に基づいた発言であったと考えるべきであろう。

もっとも,若い頃の意見と,高齢になってからの意見とでは,変化が生じるのも,それはそれで自然なことであり,この文書をもって,現在の三笠宮殿下の見解であると看做すことには無理があるのかもしれないが,それにしても,この文書を読む限り,女系,男系の論点には直接的には触れていないけれども,女性皇族の皇位継承権を認め,かつ,自由意思に基づく婚姻を主張している以上,女性天皇は生涯独身でなければならないという見解であるはずもなく,女系継承が生じることについて,容認した立場に立っていると評価するべきではないだろうか。

皇室典範論議について,明治の初期に,政府でも,例えば,宮内省案である「皇室制規」にて「第一 皇位ハ男系ヲ以テ継承スルモノトス若シ皇族中男系絶ユルトキハ皇族中女系ヲ以テ継承ス男女系各嫡ヲ先キニシ庶ヲ後ニシ嫡庶各長幼ノ序ニ従フヘシ」とあるように,女性・女系に皇位継承資格を認めるという考え方はあった。

男系固執派は,そのような考え方を覆した井上毅氏を随分と評価し,旧皇室典範以降,男系継承は疑いようのない絶対的な原理として確立していると考えているようであるけれども,昭和21年の時点において,当時の皇族が(それも昭和天皇の弟というお立場にある方が)枢密院に女帝容認の文書を提出していたわけであり,その原理の絶対性というものは,どこまで本当なのであるか,実に怪しいように思われるのである

≪引用終わり≫

うーむ

トモさんの「三笠宮家は女系絶対反対です!」というのは何だったのだろうか・・・。

トモさんの長女である彬子さまも

女性宮家ありきではなく旧皇族の子孫にまた皇族に復帰してもらうとか、今ある宮家の養子に入るとかの選択肢もあっていいんじゃない?と仰る一方で、

女性宮家創設はお相手の方の将来にも関わってくる問題ですので,決めるのであれば早く決めていただきたい。

とも仰った。

うーむ、このことを知ったら下郎下女の三笠宮さま叩きはエスカレートしそうだ

三笠宮さまのお通夜が営まれる


三笠宮さまの通夜 営まれる

TBS系(JNN) 11/2(水) 19:48配信
三笠宮さまの通夜が、しめやかに営まれています。

先月27日に亡くなられた三笠宮さまの通夜が、2日午後6時から皇族方や閣僚らが参列して、赤坂御用地で始まりました。通夜は30分ごとに参列者が入れ替わりながら営まれていて、初回は喪主で妻の百合子さまや皇太子ご夫妻らが祭壇に安置された、ひつぎの前で拝礼されました。

通夜の前には、皇室の慣例で一連の儀式には参列しない天皇・皇后両陛下が弔問されました。通夜は3日も営まれます。
(02日20:34).


下郎下女どもはヤフコメやブログで三笠宮さまバッシングをしてます。

南京虐殺を肯定や建国記念日反対など

自分たちにとって都合の悪いことを言う人に対しては例え長年皇室を支えた激動の生涯を送られた皇族に対してもひどい言葉を投げつけるということが非常によくわかりました。

本当に本当に大変だったけど「金ヨコセー!」と一度も仰らなかった三笠宮家

ハフィントンポストの記事が面白いのでご紹介します。

三笠宮さまが歩んだ激動の一世紀 日本軍を批判、紀元節復活に反対も
http://www.huffingtonpost.jp/2016/10/27/prince-mikasa_n_12667676.html?ncid=engmodushpmg00000004

>こうした三笠宮さまを支えたのが、妃の百合子さまだった。太平洋戦争開戦前夜の41年10月、三笠宮さまは高木正得子爵の次女だった百合子さまと結婚。ただ当時は日中戦争の真っ只中。朝日新聞によると、引き出物のボンボニエール(お菓子入れの小箱)は竹製の質素なものだったという。
>ご結婚70年に寄せた文書では「空襲で邸(やしき)が全焼したため、経済的な労苦はほかの宮家と比べてはるかに大きかった」と当時を偲んでいる。


おまけに高木子爵家が戦後の動乱で没落
平安時代からずっと皇室は基本的にあまり金銭的な余裕がないので妻の実家から金銭的援助をしてもらうことが伝統でした。
つまり経済的な援助がない状態で子ども5人の大所帯なのです。

三笠宮さまの結婚70年のご感想
顧みれば,70年間,陰になり日なたになり私を助けてくれたのは,何といっても妻百合子であった。結婚のとき,私は陸軍大学校の学生だったので,宿題のためにしばしば徹夜したし,間もなく戦争となり,厳しい生活が始まった。

陸大の研究部部員を務めた後,私は支那派遣軍総司令部の参謀として南京に赴任した。妻は華族の出身であるが,皇族の生活は一段と厳しく,忙しいから,留守を守っていた妻の労苦は並々ならぬものであったに違いない。

私は帰国後,大本営の参謀などを務めているうちに,敗戦となった。三笠宮家は新しく創設されたために経済的な基盤がなかったばかりでなく,空襲で邸やしきが全焼したため,経済的な労苦はほかの宮家と比べてはるかに大きかった。それを支えてくれたのも妻であった。

やがて私は東大文学部で勉強することになったが,いろいろな公務もあり,授業に出られないときには友人のノートを借りてきて,夜のうちに妻に写してもらった。それは教室で筆記するより大変だったろう。

その後,半世紀,私は諸大学の講師を務めながらほかの公務にも出席していたので,妻は親王妃としての公務を果たしながら,5人の子供の世話や教育を一手に引き受けてくれ,しかもそれを見事に果たしてくれたのである。

今静かに過去の70年を振り返ってみるとき,百合子に対して感謝の言葉も見付からないほどである。


ヘカテーがある方のツイートで気が付いたのですが、

皇室初の両親が直接子どもたちを育てたのって三笠宮ご夫妻なんですよね。

長男のトモさんも著書『皇族のひとりごと』という本でこう記してます。
皇位継承権が親父にも私たちにもある以上、戦中に姉貴が生まれ、終戦直後に私が生まれたわけであるから、初めて歴史に挑戦した勇気は認めてあげる必要があると思

本当に大変だったんだなーと思う。

元々は三笠宮家は赤坂御用地内にあった青山東御殿と呼ばれる邸宅にお住まいでした。
しかし空襲で焼失。
なにもかも全部焼けてしまった。
戦後の動乱期を何もない状態で歩き始めなければならなかったのです。
ただし、土蔵は奇跡的に無事でした。
三笠宮さまが成年の儀でお召しなった衣冠や束帯は無事で後に三人の親王さまがお召しになられました。
また百合子さまが貞明皇后から拝領された五衣も無事で、信子さまと久子さま、そして典子さまがお召しになられました。
この土蔵は現存
邸宅が焼失した為なんと御用地内の防空壕で生活をされました!
昭和20年の暮れに葉山にある三井家の別荘を拝借して住まわれ、
22年に目黒にあった洋館を購入されお引越しをされました。
実業家から譲り受けたものでしたが、この家の購入金は借金をしてご用意されました。
家の中にはよくヤモリが這い、台所にはゴキブリもネズミも走り、昭和初期の建築なのですきま風がビュービュー入るという家でした。
現在の赤坂御用地にある三笠宮邸に移られたのは昭和45年
次女の容子さまは赤坂の三笠宮邸に移った際、廊下が暖かいことにカルチャーショックを受けられたと証言されてます。
こんな生活であっても百合子さまは五人のお子さまの育児日誌をそれぞれ成人されるまで毎日記されました。
(参考文献『高円宮憲仁親王』)

それでも

「ちょっと!うちには男が4人もいるのよ!子どもがいない秩父宮や高松宮の予算をうちにまわしなさいよ!」

なんて一度も仰らなかった。

立派ですね。
プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@excite.co.jp

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