昭和の行幸啓はこんなに大変でしたパート2

アスカが捕まっちゃったニュースで「YAH YAH YAH」が流れてるからちょっとマイブームになってるヘカテーです。

「今から一緒に これから一緒に殴りに行こうかー!」

って皇太子ご一家を叩いてる連中を殴りに行きたいわ!

いいえ、だめだわヘカテー、そんな考えは乱暴よ!

やるなら公衆の面前でパイ投げよ!

思いっきり恥をかかせるのよ!

さて親切な方に教えていただいたエピソード

天皇の行啓に関してです。実は私は南九州に住んでいます。今日、実は母と二人で都城島津邸に行ったんですね。最近整備されて、立派な都城島津家に関する展示館になってるんです。
その島津邸、1972年の全国植樹祭(鹿児島との県境の小林市とえびの市に近いひなもり台という所で開催されました)で、昭和天皇と良子皇后の宿泊先となってました。その宿泊前に、島津邸は両陛下専用のお風呂・寝室が用意され、そのお風呂は両陛下が使われた後には二度と使用される事はなかったみたいです。お風呂は、母の見立てでは総大理石でした。
如何に、行啓前の準備が大変かわかるエピソードだと思います。
その島津邸の前当主は、元学習院長の故島津久厚氏でした。


都城島津家って何?という方へ
江戸時代に入ると、北郷氏は4万石弱に及ぶ薩摩藩の最大の私領(一族功臣の領地)領主として重きをなした。 正徳2(1712)年11月、第4代藩主島津吉貴の時代に島津家の家格整備が行われ、その際に島津左衛門家(日置島津家)、島津周防家(花岡島津家)とならび島津筑後家(都城島津家)は、大身分に位置付けられた。大身分は、藩主へ挨拶をする儀式序列において一門四家に次ぎ、国老(家老)よりも上とされる。
大名といってもおかしくない石高を持つ分家でありそもそも足利将軍家より直接領地を安堵された由来があるため自立志向が強く、江戸時代初期には本宗家との確執が絶えなかった。その中、12代忠能以後は短命な当主が続き、15代久直から18代久理までは島津本宗家からの養子である。更に一時期当主不在の時代を迎える。
17代忠長のときに藩主の命により島津姓に復し、北郷氏嫡流の血統も断絶した[4]。これより以後を都城島津氏と呼ぶ。
江戸時代を通して都城領主としての地位は変わらなかったが、本藩窮乏のためいくつかの外城を上知している。
戊辰戦争には私領一番隊を派遣し、鳥羽・伏見の戦いから会津若松城攻めまで従軍した。
戊辰戦争後の藩政改革で私領が廃されると、都城島津氏も都城から鹿児島へ移ったが、家臣や領民による引止め運動が起こる。 代わって都城に着任したのが後に辣腕県令として名を挙げる三島通庸で、彼はそうした抵抗勢力のなかでの行政改革に腐心することになる。
明治になって都城島津氏は都城に戻り、戊辰戦争の功で男爵となった

ウィキペディア先生 の本郷氏の記事より

都城島津邸HP

ちなみに都城島津家の本家である薩摩藩の島津家は良子さまのお母上の久邇宮妃俔子さまのご実家です。

総大理石のお風呂を一度だけ使ったら後は誰にも使わせない。

まあ恐れ多くて使えませんよ。

平成育ちのヘカテーでも恐れ多いもん

高貴高齢者コンビと秋篠さんちの場合は、昭和天皇とは逆の意味で絶対使いたくないな。

戦前の行幸はマジで大変でした

高貴高齢者コンビが毎日のように出歩き公務を楽しむヘーセー

高貴高齢者コンビは好きで出歩いてるのに、「東宮がしっかりしないから私たちが出歩いてるんです」と皇太子ご一家を責める。

そしてその子分の筆頭宮妃とショーライノテンノーを乗せた車が山登りに行く途中で前の車にアタック

加害者なのに、「もっと警備を重くしろ!金寄越せー!」と懇意のマスコミと下郎下女を使って騒ぐ。





さてそれに対して昭和天皇と良子さまの行幸啓はめちゃくちゃ少なかったことは以前記事にしました。

昭和21年まで現人神だった昭和天皇

神様の行幸は本当に大変なものでした。

昭和9年(1934年)11月16日に発生した

「桐生市鹵簿誤導事件」
(ウィキペディア先生は「昭和天皇誤導事件」で記事にしてるぞ)

鹵簿(ろぼ)とは「行幸の行列」という意味です。

戦時体制に進む時代の前期に起きた事件です。

「鹵簿誤導事件」と書くとものすごく複雑そうな感じがしますが、

昭和天皇が陸軍特別大演習後に群馬県桐生市を視察する際、誘導係の本多重平警部が緊張のあまり交差点を左折する予定だったのに直進しちゃったという事件です。

これだけ天皇と皇后が日本中ウロウロしてるへーせーだと

「え、事件ってほどのことでもなくない?群馬県警ドジっ子だなーで済む話じゃん」

と思いますが大騒動になりました。

一年前から準備してたのですが、本多警部は大変気の毒な方で本来の誘導係が体調を崩した為急きょ誘導係に抜擢された人です。予行練習一切なし。ぶっつけ本番!

おまけに案内するのはただのお偉いさんではない。神様なのだ!

今だったら県警のトップから注意される程度ですが、

現人神だからね。

岡田啓介首相、後藤文夫内務大臣、群馬県知事が昭和天皇に平身低頭にして詫びた。

昭和天皇はこれに対して「寛大なお言葉」を与えた。

(昭和天皇らしいですね)

さらには本多警部は責任を一人で負うために、

昭和天皇を乗せた列車が桐生を出発したことを確認した後に、なんと喉を日本刀で突いて自殺を図った。

幸い一命を取り留めたものの重い障害が残りました。

(舌の筋肉が切断されたから会話に支障は出るし、食道と気道が癒着しちゃったから食事をするにも一苦労)

本多警部には全国から賞賛と激励の声が届きました。

その声を受けて警部は「もう一度、陛下のお役にたつこともあろう」と生きる決意をしました。

当時「武士道」を持つ警部の美談として、戦前の日本では広く知られた話となりました。

群馬といえば正田家発祥の地ですよね?

出歩き公務大好きなミテコさまも「あちらはよく我慢してる」と言った冨美さんも「結婚は二人が勝手に決めちゃったんだもん、ダメって言ってもきかないんだもん」と言った正田英三郎氏も知ってるはずなんだけどな。

さて、本多警部は戦後の昭和天皇をどう見ていたのか?

本多警部の娘さんの証言

二十一年三月、県下の戦災復興状況ご視察のため、陛下が再び群馬県をお訪ねになった。その後も地方巡幸で全国を回られた。軍服から背広姿に変わり、市民と気軽にお話しになる陛下のご様子をラジオなどで知って、父は次第に元気をなくした。「世の中、変わった。武士道は必要なくなった」「もう世を捨てた」などの言葉を、よく口にした。
(朝日新聞社社会部編 「父の事件」『それぞれの昭和』 朝日新聞社 1985年3月発行)

知られてるのは本多警部の事件だけですが、

宮崎俊弥さんの研究によると群馬行幸でほかにも3件事件が起こってます。

①群馬事件
大演習直前の10月に行幸予定地だった組合製糸群馬社で起こった同社の一部組合員と会社幹部の軋轢が生じて検察への告発騒ぎに発展して行幸が中止。大久保佐一社長が責任を取って自殺

②巡査割腹自殺未遂事件
大演習が行われた13日早朝、多野郡八幡村(現高崎市)の山名御立所の警護に遅れた同村の藤岡警察署渡部巡査がその責任を感じて佩刀で割腹自殺を図る。県警本部の現場への指示が遅れたことが遅参の原因。一命を取り止めたものの、誤導事件とともに県議会で問題化した。

③群馬県体育主事失踪未遂事件
15日に前橋中学校で天覧合同体操が行われた。前橋市内の小中学校の生徒4800人を県の体育主事が体操の指揮をしていたが、号令を間違えて生徒の所作がちぐはぐになってしまった。その責任を感じて失踪を図った。
(参考文献 宮崎俊弥「昭和天皇の桐生市行幸と誤導事件」『地方史研究』 地方史研究協議会 2003年10月発行)

こうやって見ると

「群馬県民ってドジっ子ばっかりだなー」と笑えるけど、

それだけ天皇陛下を迎えるって戦前戦中は大変ことだったのです。

昭和天皇があまり出歩かなかったことにはこういうことを経験されたからってこともあるんじゃないかな?

九条家から嫁がれた貞明皇后だって嫁いだころは慣れるまで苦労された

小学館から隔週で出版されてた『皇室の20世紀』というDVD付きの雑誌を買いました。

(デアゴスティーニみたいなものです)

(かなり前のものなので新品は全て在庫切れ、中古しかありません)

ヘカテーが買ったのは
7巻、10巻、11巻、32巻、35巻です。

7巻『皇太子さま・雅子さまのご成婚』
10巻『敬宮愛子さまのご成長』
11巻『昭和天皇 戦後のご巡幸』
32巻『香淳皇后と皇后美智子さまの微笑み』
35巻『皇室と王室との交流』

ちょっとまだ欲しいものがあります。

皇太子ご一家バッシングでお馴染みの小学館なので、

第一巻が『世紀のご成婚』です。

昭和天皇じゃないのか!と思いました。

そしてリョーヘーカが多いのは仕方がないとはいえ、

異常な程秋篠さんちを特集した巻が多い。

いやー、実に小学館らしいです。

10巻は『敬宮愛子さまのご成長』という巻です。

その説明を読んでたら小田部雄次氏の「皇室の博聞」というコーナーがありました。

10巻では「女官たちの支え」という題がついてます。

そこに書かれていたエピソードが微笑ましいのでご紹介します。

貞明皇后は満15歳で結婚した当初、女官たちに「おてんば」とあきられていた。生まれてから5歳まで東京・高円寺の農家に里子にだされて、野山をかけめぐって育ったのだ。華族女学校に入っても、自由民権運動家であった川上音二郎の「オッペケペ節」を歌ったりしたという。そもそも女学校出身の妃殿下ははじめてのことで、宮中内でその素行が「軽々しい」と見られたのである。
この貞明皇后の教育を担当したのが、万里小路幸子であった。万里小路は孝明天皇と明治天皇の2代にわたり女官として仕えた最長老であった。天保6年(1835)生まれで、貞明皇后が結婚した当時は65歳になっていた。和漢の学、裁縫、料理、茶道に通じており「宮廷のこと一切に通暁した」といわれた。
侍従も側近も一目置いた。万里小路は新婚早々の貞明皇后に「無遠慮な小言の矢」を飛ばし、行儀作法や立ち居振る舞いを指導した。貞明皇后は「万里小路にしかられて、ほんとに切ない思いをすることもあります」と周囲に漏らしたこともあった。やがて、万里小路は老齢のため宮中から身を引くが、貞明皇后はその厳しい躾に深く感謝したという。
厳しい教育の中で貞明皇后をかばったのは、同じ女官の柳原愛子であった。柳原は明治天皇の側室で、大正天皇の生母だった。いわば、貞明皇后の実の姑にあたる。柳原は貞明皇后の「かげになり、日向になり、年若い妃をおかばいした」という。宮中生活に慣れなかった貞明皇后は、「実の母のようにうれしく思った」と回想している。
昭和天皇の生母としての厳格さが知られる貞明皇后であるが、多様な女官たちの支援によって多くの試練を乗り越え、戦後の占領軍の皇室改革にも、毅然と対応したのであった


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貞明皇后が映っている貴重な映像↓




厳しく教育を受けて涙することはあっても、それは自分のためだったと感謝する

正田美智子が皇太子妃に決まった時に大反対された梨本宮妃だった梨本伊都子さまだって著書で

「姑よりもはるかに厳しい女官から『ここは大名家とは違うんです!』と何事にもダメだしされて何度も涙を流した」

と仰ってます。

みなさん、華族出身の自分が苦労したのだから何も知らない平民じゃ教えても下手すりゃ理解できないんじゃないかと考えられた。

こういう歴史を知ると

「平民出身のミテコさまは良子皇后と秩父宮妃と高松宮妃、そして華族出身の女官たちに虐められた!」

と叫ぶのは実にバカバカしい。

良子さまが「もう時代が違うんだから」と優しくされた為、

はっきり言って貞明皇后や良子さまよりも甘い教育がされました。

それでも牧野女官長が頑張ったけど、アホで知られた昭和の皇太子からは「ミチコを虐めるな!」と怒鳴られました。

(『美智子皇后物語』より)  
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池田厚子さんがご覧になったたった一度の昭和天皇が怒った顔と泣き顔

今晩の夕飯に前から作りたかった華中華4巻の「秋刀魚チャーハン」を作ったヘカテーです。

かぼすを調子に乗って入れすぎてカボス味の変なチャーハンになっておいしいのか微妙な味になりました。

ちなみに再現料理をちゃんと作った方のブログがこちら
http://luckyclover7.blog27.fc2.com/blog-entry-618.html

ちなみに華中華の主人公は華子という名前の女性中華料理人です。
横浜中華街が舞台です。
(偶然であってほしいのですが、華ちゃんの妹の名前は紀子です)

さてヘカテーのどうでもいい夕飯情報は置いといて、

『別冊女性自身 皇室特集号 天皇から紀宮まで激動の70年』

という本をヤフオクで落札しました

昭和46年4月発売なのでタイトルの天皇は昭和天皇のことです

「天皇陛下の素顔」

というコーナーで初孫である東久邇信彦さんと第四子である池田厚子さん(順宮さま)が手記を寄せられてます。

今回は池田厚子さんのエピソードをご紹介します。
この時池田厚子さんは40歳、昭和天皇70歳でした。

池田厚子さんが見た父帝のただ一度の怒った顔
私が学習院高等科のときでございました。学校での英語のテストの成績が悪かったときのことでした。
父陛下は、きっと私をおにらみになり、
「バイニング夫人について特別な勉強もうけているのに、これはどういうわけか」
おたずねになられたのでございます。そのきびしくこわいお顔。私は身のすくむ思いでございました。初めて見る父陛下のきびしいおつつけのお顔。
でもいまは、もっとも懐かしい、それが父陛下のお顔になっています。後にも先にも父陛下から身のすくむほど叱られたのは、このときだけでございました。叱るとき、叱られるとき、親子の情は深まるものと申しますが、いま思い出すと、‟私のことを心配してくださっている”としみじみ父陛下の愛情を感じるお顔でございます


ズルさせようとかそういう考えは昭和天皇にはありません。
勉強を怠ければちゃんと叱ったのです。
だから皇太子である継宮が単位が足りなくて留年になると言われても、圧力をかけたりして進級させようとされなかったのですね。(明仁皇太子が礼宮がカンニングさえできない程バカだったのに進学&進級させたのとはまったく違う)
昭和天皇に怒られたらそりゃ怖いだろうな。

さてもう一つが池田厚子さんがご覧になった昭和天皇の泣き顔
最後に、あれこれ思い出してきました父陛下のお顔のなかで、最も私の心に深く刻みこまれているお顔のこと。
それは昭和三十六年、東久邇家に嫁がれた成子様(注・厚子さんの姉君に当たる)が宮内庁病院で大勢のお子様とご主人を残して亡くなられた日のことでございます。
徹夜で母陛下と看病になられた父陛下は目を真っ赤にし、泣いておられたのでございます。私が陛下の、父陛下のお涙がこぼされるお顔を拝見したのは、これが初めてでございました。




東久邇成子さんのご子息である壬生基博さんは後にこうお話されてます。
(東久邇家に生まれ秀彦というお名前でしたが、壬生家の養子に入られてお名前を基博に変えられました)

なんていうか、母が息を引き取ったとき、陛下が「どうもありがとう」っていうふうに、ぽつりといわれたのがね、ずっと私の記憶の底に焼き付いてて。これは、大人になって考えると、最後まで手を尽くされた侍医さんや看護婦さんに対してそういふふうにいわれたということなんでそうけれども、そうじゃなくてね、死んでいった母親の病床に付き添った皆全員に対してそういわれたのではないのか、と。実際にはわかりませんけれど、その陛下のお言葉が、私は非常に印象に残っております
(「第一章 陛下のお誕生日に漫画をプレゼント 対談東久邇信彦・壬生基博」『思い出の昭和天皇』光文社 1989年12月発行)

昭和天皇のありがとうという言葉は東久邇成子さんにもかけられた言葉だと思います。

「私たちの子どもとして生まれてきてくれてありがとう」

東久邇信彦さんは成子さんを亡くされてから昭和天皇の白髪が増えたと仰ってます。

あの昭和天皇が涙を流した程のわが子との別れ

あまりにも大きな大きな存在を失った昭和天皇と良子さまに対して昭和の皇太子夫妻がやった仕打ちは絶対に許されるものではありません。

那須で静養中の昭和天皇と良子さまの元へまだ亡くなられてから1か月も経たないうちに夫婦でやって来て、自分たちの不平不満を夜10時まで訴え続けた明仁皇太子と美智子皇太子妃

昭和天皇はたった一言だけ仰った。

「よくわかった」

話の内容ではなく、

「お前たちがわが子を失った親の悲しみもわからないような血も涙もない人間ということがよくわかった」

という意味のように思えます。

ある晴れた日に親戚一同が集まって

皇族方、旧宮家、縁戚の方がお集まりになって行われたレクリエーション大会

高松宮妃喜久子さま(右)、伏見朝子さん(左)とピンポン玉をスプーンの上に乗せてゴールまで歩く美智子皇太子妃
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リレーの応援をされる方々、高松宮さまが大きな声で声援をおくられてます
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「はい、3等賞おめでとう」 良子皇后陛下直々に商品を手渡される。
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ジュースを飲まれながら妹君の大谷智子(さとこ)さんとお話される良子さま
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(ヘーセーでは皇太子妃が妹君と交流を持つと大バッシングをされることに比べたらなんと麗らかなこと!)

お寿司を召し上がられる方々。昭和天皇がお箸を持たれるお姿は珍しい。
秩父宮妃勢津子さま、久邇邦昭さん(良子さまの甥)、一条直子さん(元閑院宮春仁王の妃、離婚して一条姓に戻られました)とご一緒に
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昭和天皇と香淳皇后と一緒に池をのぞきこまれる三笠宮家のトモさんと甯子さん。左端は高松宮さま
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(このおチビさんが大きくなってアルコール依存症になると誰が想像しただろうか)

おでんを召し上がられる昭和天皇と香淳皇后。右端のセーラー服の男の子は昭和天皇の初孫の東久邇信彦さん
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話が弾む香淳皇后と喜久子さま。勢津子さまとお話されてるのは朝香鳩彦(やすひこ)さん
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お団子を召し上がられる昭和天皇と久邇邦昭さん
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そして


なぜかこの人もいた!
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正田富美!

正田家と絶縁状態と言ってるヘーセーの皇室ジャーナリストはこの事実をどう説明するのかね?

あと明仁皇太子の座り方がお行儀が悪い
プロフィール

ヘカテー

Author:ヘカテー
皇太子ご一家大好きの神奈川生まれの神奈川育ちの神奈川県民。昭和生まれの平成育ち。真っ当な日本が好きなだけだにゃ~
↑悪いナマズを踏みつけている招き猫
メールアドレス retsugaiha@excite.co.jp

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